スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント:を見る(-)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

田母神俊雄「原発の汚染水による被害は出ていない。何の問題もないという証拠だ」

んなわけねぇだろ。

●2013/8/11  田母神俊雄さんのツイッターより
 田母神俊雄さんのツイッター・2013/8/11


●2013/8/21  田母神俊雄さんのツイッターより
 田母神俊雄さんのツイッター・2013/8/21




にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ



FC2ブログランキングへ



スポンサーサイト

コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

「万国のアルバイトよ、悪ふざけせよ!」――バイトテロ擁護論

(1)

アルバイトが悪ふざけ写真をネット上にアップして炎上するという一連の騒動――いわゆるバイトテロであるが、そうしたテロリズムに走る幼稚で愚かな労働者に対して、私・ばたおは支持を表明したい。なぜなら、そうしたバイトテロは、現在の労働/労働者の在り方に対するアンチ・テーゼとなっているからだ。



(2)

むしろ問題は、バイトテロよりもそれを批判する良識派の方にこそある。良識派の多くは、バイトテロを批判する根拠として、アルバイトに高い労働倫理を要求する。“俺たちエリートのために、お前たちバイトは奴隷のように働け”というわけだ。すなわち、「自ら進んでサービス残業し、鬱になったり、過労死や過労自殺したりするような倫理観の高い労働者」こそを労働者の理想状態としているのである。

もちろん、「自ら進んでサービス残業し、鬱になったり、過労死や過労自殺したりする」のは人の勝手であり自由である。それは否定されてはならない。しかし、そうした「倫理観の高い労働者」のみを理想の労働者として想定するのには違和感がある。良識派の主張とは異なり、炎上バイトを含むもっと多様な労働/労働者の在り方を許容できる社会が構築されなければならないのではないだろうか。



(3)

またバイトテロに対して、なぜ、こんなにも良識派が批判している――恐れているのかと言えば、それが思想やイデオロギーからではなく、“ほんの些細な出来心”から実行されているためだ。実際、バイトテロのほとんどは、一部の思想家による煽動というよりも自然発生的である。

すなわち、時代の空気や流れが、こうしたバイトテロを引き起こしていると考えられる。従って、個別具体的な炎上バイトを追及するのはナンセンスだと言わざるを得ない。アルバイトはどんどんテロリズムを実行し、結果論として社会に異議申し立てすればいいと思う(個別具体的な炎上バイトが、どのような意識でテロを行う/行ったかは知らないし、それはどうでもいいことである)。





にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ



FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

「ほとんど歩いてるじゃねぇか!」

●2013/8/27  「ほとんど歩いてるじゃねぇか!」森三中・大島美幸から見えた“24時間マラソン”の限界――日刊サイゾー

毎度おなじみの光景が、また今年も繰り広げられた。日本テレビ系『24時間テレビ36 愛は地球を救う』が24日から25日にかけて生放送され、チャリティーマラソンランナーを務めた森三中の大島美幸が25日午後9時20分ごろ、東京・日本武道館に無事ゴールした。

走行距離は88キロで、大島は前日24日午後7時すぎにスタートした。だが、放送時間内には到着できず、その後生放送された『行列のできる法律相談所』(午後9時~)までズレ込んだ。そのため、放送内容の変更を余儀なくされるハメに……。番組関係者は「この日の目玉は、先日結婚を発表したフットボールアワー・後藤輝基と一般女性の“後日談”だった。ところが、大島さんのゴールが遅れたことで、後藤の“生ノロケ”はなし。テレビ欄で『結婚へフット後藤が急展開!』と大々的に宣伝していたのに……」と複雑な表情を見せる。

確かに、あの巨体で完走を果たした大島は称賛に値するが、一方で「放送中にゴールする」という意識が足りなかったことも否めない。

「後半はほとんど歩いていて、マラソンというよりウォーキングでしたからね。ネット上では『時間の制約がなければ、自分でもできるわ!』という声も上がりました」(テレビ関係者)

88キロという数字だけ聞けば大それた挑戦のように思えるが、単純計算で88キロを24時間で割れば、1時間で3.6キロ余りを走破すれば十分間に合う計算となる。これをどう見るかは人それぞれだろうが、芸能プロ関係者いわく「放送時間を延長してまでゴールの瞬間を放送するようになってから、明らかに現場の緊張感がなくなった。これでは週刊誌に叩かれるのも無理もない」。

マンネリ化しつつある『24時間テレビ』。来年は、新たな試みが必要なのかもしれない──。





にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ



FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(2)

 by アジシオ次郎
 こんにちは。

 毎年恒例の「24時間テレビ」におけるチャリティーマラソン、今年は森三中の大島がランナーを務めましたが、当初大島に決まった時は「大丈夫か?」とすら思いましたね。東京マラソンで心肺停止処分にかかった松村邦洋のケースもありましたし。

 無事にゴールしたものの、放送時間内にゴールできず本来放送されるはずの「行列のできる法律相談所」が大幅な変更を呼びなくされたことには、スタッフが無理に放送時間を伸ばしたって感じですね。

 マンネリ化しつつあると言いますが、だったらチャリティーマラソンを廃止しろって声も出そうです。放送時間内にゴールできずこの後の番組を当初の内容から大幅に変えて時間短縮する形でやるのは、それを楽しみに見ている人にすれば「予定と違うじゃないか!!」って怒るのも無理はないですよね。

 新たな試み、だったらチャリティーマラソンに代わる企画でも考えて欲しいですね、日本テレビは。
Re: タイトルなし by ばたお
アジシオ次郎さん

コメントありがとうございます。

「24時間テレビ」はCMが流れていることからも分かるように、
チャリティー番組ではなく、チャリティー風バラエティ番組です。
残念ながら……。

マンネリ防止策としては、チャリティーマラソンではなく
チャリティーウォーキングに変えることを提案します。
これで、実態とも合致すると思います。

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

勝ち組が負け組に転落するのは自己責任である。

一部で、おかしな自己責任論が登場している。それは、勝ち組と負け組を分けずに議論する自己責任論である。格差社会化が顕著となった現在の日本において、それは時代遅れなものであろう。

もちろん、負け組のほとんどが「勝ち組にはなれず、ずっと負け組のまま」というのは、社会の仕組みに問題がある。従って、それは自己責任ではない。負け組が負け組であることを「自己責任だ!」などという主張は、断じて是認することはできない。

しかし、勝ち組が負け組になった場合、それは自己責任である。これを、社会システムの問題にすることは許されない。なぜなら、勝ち組が負け組に転落するのは、その人が競争に敗北しただけであるからだ。勝ち組がずっと勝ち組でいたいのあれば、命をかけて努力し、死ぬまで競争し、そして勝ち続ければいいだけの話である。

勝ち組と負け組を十把一絡げにし、「共に自己責任だ」あるいは「共に自己責任ではない」とするような主張は暴論だと言わざるを得ない。なぜなら、負け組が「負け組のまま」なのは社会の仕組みに問題があるが、勝ち組が「負け組に転落する」のは自己責任に過ぎないからだ。格差社会・日本において、これから必要とされる議論の枠組みは、以上のような適切な自己責任論なのではないだろうか。




にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ



FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

自然は無限ではなく、劣化する有限なものである。

『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』
▲中村修『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』


(1)

著者によれば、自然は劣化する有限なものであるにもかかわらず、従来の経済学は、自然を劣化しない無限なものとして扱い、無限に経済成長を続けるという前提を置いてきた。つまり従来の経済学は、人間の生存基盤にかかわる前提を誤って設定してきた、というわけである。

このような近代経済学やマルクス経済学といった近代由来の経済学の根底には、ニュートン力学のモデルがある。それ故に「永遠の時間と均質な空間」が前提とされ、それこそが「無限の自然」という無意識を作り出しているという。

従って、すべての経済学は「自然は劣化する有限なものである」という前提を明確に設定し、そこから物質循環を維持できるような基本原理を持つべきだ、というのが本書の結論である。そして、経済活動は自然に制約されざるを得ないという意味で、「農学」のような学問の在り方こそが持続可能な社会の方向を指し示している、とする。



(2)

そんな著者であるが、環境問題に対する批判には厳しいものがある。「環境に配慮した施策もやってますよ」とか「外部不経済のものを少しは内部化しましたよ」といった程度の話では済まない、というわけだ。

自然問題への現実的アプローチにおいて、地域性や個々の経済学者の認識・価値観が多様なため、内部化の作業は地域性・価値観に委ねられ、無原則とならざるをえない。


物質循環の確保という基本原理に則れば、気まぐれで手ぬるい「環境にやさしい施策」などというものは屁の突っ張りにもならないというのである。



(3)

著者の唱える物質循環を確保するための厳しさを示すものとして、石油価格の設定を見てみよう。

もし、基本原理がなければ石油価格は経済学者の価値観・各国の政治経済状況に応じて無原則に論じられ、科学的客観性を失った場当たり的議論に陥ってしまう。


著者はまず、炭酸ガスの増加をもたらさない薪燃料を想定する。その上で、物質循環を確保するために、化石燃料であるガソリンから再生可能な資源である薪への転換という政策が実施されなければならないとすれば、ガソリンは1リットル当たり1000円以上になるという。

しかしながら、私たち一般市民が「ガソリンの価格が高くて困りますよね」と言って共感し合っている現状において、「持続可能な社会にするために、ガソリンはリットル1000円にすべきですよね」などと話すことができるだろうか。少なくとも、そんなことを唱える政治家は選挙で当選しないだろう。私たち一般市民にとっては、モノやサービスは安ければ安いほどよい――ツケを先送りにすればするほどよい。たとえそれが将来に破滅をもたらすことが分かっていても、“いま・ここ”の幸せを求めるのが心情というものだからだ。

では、こうした著者の提起は一蹴されてよいのだろうか。いや、それは違う。この提起は、「その社会的な支持あるいは合意をいかにして調達するのか」といった議論へと展開される必要があるだろう。それ故に、この問題は重いのである。



   私の提案は値上げです!!





にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ



FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

「食料自給」について考えよう(2)

●2013/3/25  食料問題研究の第一人者が緊急警告「今、世界中で食料の争奪戦が起きている」――週プレNEWS

2025年には世界の人口が80億人を突破すると推計されるが、そのとき今のように日本で手軽に食べ物を入手できるのだろうか。30年以上にわたって食料問題に取り組んできた第一人者である柴田明夫氏が、厳しさを増すグローバル経済と、日本の食料政策の間違いを指摘する。この先、私たちが生き残る道はどこにあるのか?

■海外に頼るのは危険! 転ばぬ先のつえを

食料自給率には、生産額、重量、カロリーの3通りの表し方がありますが、私は生命の維持に直結するカロリーベースが重要だと思います。1960年までは、日本の食料自給率はカロリーベースで約80%ありましたが、その後20年間で洋食化や外食化が進むなか、生産量が追いつかなくなり低下していった。ただし、これは経済成長に伴う現象なので仕方ない部分もあるでしょう。ところが、80年以降は食料消費が頭打ちなのに生産力が低下している。食料の輸入が増えて自給率が落ちていき、今では40%を下回っている。アメリカの128%、ドイツの84%など、ほかの先進国と比べても極端に低い数字です。

現在、日本の穀物供給量は年間約4000万トン。そのうち約3000万トンは輸入に頼っています。これまでは安くて良質な食料を海外から調達できるという安心感があったのですが、近年は海外からの輸入が不安になってきました。海外のコメ、小麦、トウモロコシなど穀物価格を見ると、過去30年間でおよそ3倍です。特に、昨年の夏からは最高水準で推移している。これはもう一時的な高騰ではなく、水準自体の上昇と考えたほうがいい。今や世界中で食料の争奪戦が起きているのです。

本来、日本の農業の潜在能力は非常に高いので、私はこれをフルに生かす方向に切り替えていくべきだと思います。生産性を上げて足りない分を輸入するならまだしも、田んぼを遊ばせておきながら、食料が足りないから海外に頼るという考えは非常に危険です。国にとって、GDPが増えて農業のウエイトが下がるのは近代化ともいえますが、日本はあまりにも農家の規模が拡大されなかった。その結果、明治以来100年間ほとんど変わらなかった農業就業人口1200万人、農地面積600万ヘクタール、農家戸数600万戸という数字が、ガタガタと崩れたのです。今では、農業就業人口260万人、農地面積460万ヘクタール、農家戸数は第1種と第2種の兼業農家も含め156万戸にまで減ってしまいました。

日本の食料問題にとって分岐点となったのは、基幹産業としてのコメを維持していくことを目的として61年に施行された農業基本法です。農業基本法は、本来は工業部門の賃金上昇と同レベルで米価を上げて、農村と都市を均衡させるという発想でした。しかし、消費者には安くコメを提供しなければならず、消費者米価が生産者米価よりも安くなり、それを補うための赤字は1兆円近くにまでなってしまった。さらに、80年代に入るとコメの消費量がガクッと減って値段が下がり、生産量を減らしてきた。当然、これでは日本の農業を維持できません。

世界の農業に目を向けると、価格水準が3倍になったことから農業開発ブームが起こっています。かんがい設備などの装置化や農機具の機械化、農薬や肥料を与える化学化、そして遺伝子組み換えなどのバイオテクノロジー。儲かるものを作ろうという農業の商品化、工業化が進んでいる。ところが、自然の領域に踏み込みすぎて水不足や異常気象などの問題が明らかになり、マーケットは不安定になってきています。だからこそ、日本は国内の生産を見直す必要があるのですが、現状では政府や国民に危機意識がまったく感じられない。

99年、農業基本法に代わる食料・農業・農村基本法が制定されましたが、それでも国内の生産力は衰退する一方です。備蓄についても、民主党政権は「消費者のコメ離れが進んでいるなら、備蓄を減らせ」という発想でしたし、自民党政権も依然としてコメは供給過剰だという見方。海外市場に大きな変化が生じてきているのだから、もう少し備蓄を増やすなどして、バランスを取っておくべきです。将来の危機を感じ取って、転ばぬ先のつえをつかなければいけないのに、行政からそういった話は出てきません。

■アベノミクス、TPPで起こること

アベノミクスは思い切った金融緩和でインフレ期待を高め、円安株高が加速しました。ただ、企業が成長するには国内に設備投資する必要がありますが、実際は海外に流れるでしょう。それでは国内雇用も賃金も増えない。今、中国ほか新興国を中心に世界的な工業化が起こっています。人口はBRICS(ブリックス・新興5ヵ国)だけで30億近く。それにアジア、アフリカ諸国が続くわけですから、耐久消費財の生産は膨大な量になる。工業製品はグローバル競争によって価格が抑えられますが、使用される原油などの1次産品は需要が増えて価格が上昇。「資源はインフレになるけれど、製品はデフレになる」という状態です。日本ではどうか? アベノミクス後の日本でも食料や原油など1次産品は価格が上がり、工業製品は上がらない“部分インフレ”になる可能性が高い。

一方で、安倍政権が進めるTPPに参加しても、私は農水省が試算するような「400万トンが輸入されて日本のコメが壊滅状態」とはならないと思います。世界中で日本にコメを輸出できるのは、アメリカ、中国、オーストラリアぐらいですが、どこも輸出余力はそれほどありません。アメリカはインディカ米300万トンを南米に輸出していますが、農水省が出しているのはそれがそっくり日本に入ってくるという試算で、実にいいかげんです。オーストラリアは06、07年の干ばつの影響で50万トンほどしかコメは作られておらず、輸出は難しい。中国も国内需要が急拡大しているため、安いコメが日本に入ってくることはまずないでしょう。

こうしたことから10年後の日本の食料事情を予想すると、値段が高くて買えない農産物が出てきます。特に、トウモロコシや大豆は厳しい。中国は1990年代までは大豆はわずかしか輸入していませんでしたが、一気に増えて今では6300万トンを輸入。アメリカ農務省は、将来、中国の大豆輸入量は9000万トンになると見ています。トウモロコシについても、中国は09年から輸入を始めました。輸入トウモロコシの多くが家畜のエサとなりますが、中国の配合飼料の供給計画では近々4億4000万トンになります。そのうち半分をトウモロコシとして、その10%を輸入で賄うと2000万トンが必要となる。そうなると、もはや日本はトウモロコシを買えない可能性が出てきて、畜産は大きな影響を受ける。牛の頭数を牧草などの自給飼料で賄えるまでに減らすなど形態をガラリと変え、生態系のバランスに見合った経営が必要になります。

週プレ読者に関していえることは、このままでは牛肉の値段も高騰して、めったに食べられなくなるということ。もちろん、日本の農業の現状を考えれば、「コメだけは食べられる」などと安心してもいられません。私は“離れる農業”と言っていますが、グローバル経済の進展とともに、食と農業が離れてしまった。輸入先は地球の裏側まで広がり、冷凍など保存技術の発達で生産から口に入るまでの時間も離れる。さらに、加工する場所も遠くなりブラックボックス化してしまった。そうしたなかで、冷凍ギョーザ事件などが起きたわけです。これは、食の安全という意味でも、安定供給という意味でも問題があります。食料危機に備えて、今すぐできることといえば、“バイ・ジャパン”。国産の食料を買うこと。国レベルでの地産地消です。多少高くても、志のある農家が作ったものを選ぶ。それと食料ロスも大きな問題ですから、当たり前ですが、食べ残さない、捨てない。週プレ読者世代は、農業体験もやっておくべきではないでしょうか。国がそれを支援して第1次産業を育て、多様な農業経営層を創出していくべきだと思います。





 にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ

 

FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

「食料自給」について考えよう(1)

●2013/3/19  2025年、人口80億人。地球に食料危機がやってくる――週プレNEWS

世界の人口が80億人を突破すると推計される2025年。現在でも食料自給率が40%を下回り、海外からの輸入に頼らなければ食っていけない日本は、深刻な食料危機に直面する可能性が高い。しかも、ただでさえ厳しい食料事情をさらに危うくする動きが、グローバル化した世界のあちこちで発生し始めている。なかでも、人口爆発は現実的だ。地球が養える人間の数には限界がある。土地にも水にも石油にも、すべての資源には限りがあるからだ。だが、世界の人口はふくらみ続けている。

1959年には30億人だったのが、87年に50億人に達し、2011年には70億人に。人口が増えれば当然、必要な食料も増える。一方で、人の住む場所や働く工場を確保するため、農地は減少。生活用水や工業用水の需要が増え、世界中で農業に使用する水も不足し始めている。フィリピンにある国際稲研究所は「地球が養える人口は83億人が最大」と推計している。一方、世界の人口は2025年には80億人に達する見込みだ。必然的に、不足する食料の価格高騰が予測される。農林水産政策研究所が2011年2月に発表した「2020年における世界の食料受給見通し」も、今後10年間は食料価格が上昇すると予想する。さらに、国連人口部の推計によれば2043年頃には世界の人口が90億人まで増えるとされており、土地の物理的限界から農業生産量の拡大が見込めない以上、食料の争奪戦が起きることは確実だ。

世界の食料供給に深刻な影響を与える、干ばつなど異常気象の不安も忘れてはならない。例えば、『食の終焉』(ポール・ロバーツ著/ダイヤモンド社)によれば、全世界におけるトウモロコシ輸出量の6割を占めるアメリカで、広大な地域の水源となっているオガラーラ帯水層は30年以内に干上がる見込みだという。異常気象によって食料生産が落ち込めば、各国は輸出を控える。2010年夏、干ばつで不作に見舞われたロシアは「穀物輸出禁止令」を発令。これが世界中で穀物価格の高騰を引き起こした。自国民の食料不足を防ぐため、輸出国の政府が輸出禁止を断行するのは当然の政策といえる。そうなった場合、影響をモロに受けるのは食料自給率の低い国。つまり、日本だ。

2011年度の日本の食料自給率はカロリーベースで39%にとどまる。先進国はどこも農業政策に力を入れており、食料自給率が50%を下回る国はごくわずか。「食料が足りなければ、カネを払って輸入すればいい」という声もあるが、実際には「食料はできるだけ自給する」と考えている国が多いため、穀物が輸出に回されている量はかなり少ないのだ。『2015年の食料危機』(齋藤利男著/東洋経済新報社)によれば、世界全体のトウモロコシの生産量から輸出に回されているのはわずか6%。ただでさえ少ないのに、異常気象が発生して各国が穀物の輸出をさらに制限したらどうなるか。食料価格が暴騰し、日本の庶民が普通に食べることさえ難しい状況になるかもしれない。

さまざまな要因で食料危機の到来が予想される今、日本は少しでも食料自給率を上げることを真剣に考えるべきだろう。





 にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ

 

FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(8)

軍事革命委員会の設立

(1)

さらなる革命に向かうボリシェヴィキですが、フィンランドに逃亡したレーニンとペトログラードの党中央委員会には、微妙な温度差がありました。この頃のボリシェヴィキは、全政党民主協議会に参加するかどうかを検討していました。これは、憲法制定議会選挙を行うまでの繫ぎ国会のような組織です。ややこしい話ですが、憲法制定議会できちんとした手続きを踏まなければ、ちゃんとした政府にはならないからです(つまり、「正統性:手続き上の正しさ」の問題。革命政府には、「正当性:内容的な正しさ」はあるものの、「正統性:手続き上の正しさ」がないということ)。ケレンスキーの政府が“臨時”なのは、そのためです。ともかく「国会がないと困るから、皆で集まろう」というものでした。レーニンはこれに反発し、党中央委員会に手紙を送ります。

カーメネフ「えーと、レーニンさんから『ボイコットしましょう。それより蜂起しましょう』って手紙が届きました」
ルイコフ「私は参加してもいいと思いまーす。ボリシェヴィキは多数派になってるんだから、合法手段で十分です」
カーメネフ「私もそう思う。レーニンさんは過激すぎ」
トロツキー「私はボイコットでいいと思う。力で奪取できる条件は整えられているし、もうボリシェヴィキには誰も逆らえない」
カーメネフ「スターリンは?」
スターリン「……。ボイコットでいいんじゃない」
カーメネフ「えー」

この頃のスターリンは、あまり立場を鮮明にしていませんでした。ともあれ、この手紙は超法規的措置として「見なかったこと」となり、会議には参加することになります(しかし、途中退席)。

ジノヴィエフ「党はレーニンさんの意見に反対したみたいですね」
レーニン「まあ、なんてこと。ぼやぼやしてられません」

業を煮やしたレーニンは帰還を決意。ジノヴィエフと共にペトログラードに戻ります。



(2)

さて1917年10月9日(12日、16日という説もある)、ペトログラード・ソヴィエトは軍事革命委員会を設立しました。トロツキーはこれを、ボリシェヴィキの隠れ蓑として利用しようとします。

トロツキー「赤衛隊(武装した労働者による民兵組織)とクロンシュタットの水兵たちをここに集結させます。ソヴィエトの名の下に動かせるのは、何かと都合がいいのです」

そして10月10日、戻ってきたレーニンによって党中央委員会が招集されます。席上、レーニンは10月25日に予定されている全ロシア・ソヴィエト大会よりも先に蜂起することを提案します。

レーニン「まず武装蜂起です。ソヴィエト大会を待っていたら、メンシェヴィキや社会革命党につけ込まれます」
トロツキー「時期はともかく、蜂起には賛成ですね」
ルイコフ「本当にやるの?」
スターリン「……(微妙な表情)」
カーメネフ「私はソヴィエト大会参加でいいと思うよー。蜂起しても、軍隊がちゃんと味方になってくれるか分かんないから」
レーニン「大会でもし少数派になったらどうするんですか。蜂起です。蜂起、蜂起、蜂起、そして蜂起!」

レーニンは熱弁を振るって中央委員たちを説得していきます。正確なやりとりは不明なのですが、最終的には2人を除いて説得に成功しました。

カーメネフ「私は反対」
ジノヴィエフ「私も反対です」
カーメネフ「え、ジっちゃんも?」
ジノヴィエフ「合法手段で政権が取れるなら、それで十分です」
カーメネフ「でも……みんな賛成しちゃったよ」
ジノヴィエフ「意見だけでも表明しておきましょう」
カーメネフ「じゃあ、新聞に『蜂起反対』って載せちゃおう」

性急な武装蜂起に反対したカーメネフとジノヴィエフの2人は、なんと『ノーヴァイヤ・ジーズニ』に「ボリシェヴィキによる蜂起は革命に破滅をもたらす」との署名原稿を載せました。蜂起計画を新聞に暴露したのです。おかけで、メンシェヴィキから追及されることになりました。

マルトフ「武装蜂起は本当にするんですか? するなら、それはいつなんですか?」
トロツキー「決まっていたり、いなかったりです。いろいろと」

もちろん、レーニンはこのことに激怒しました。

レーニン「なんということでしょう。カーメネフさんだけではなく、ジノヴィエフさんまで反対するなんて。2人は党から除名です」

さすがに除名は他の中央委員が取り上げませんでしたが、それでもレーニンは2人を「スト破り」と罵ることを止めませんでした。

余談ですが、この「裏切り」行為によってレーニンの副官とまで呼ばれたジノヴィエフは、それまであったレーニンとの家族ぐるみの関係もなくなることになります。レーニンは、「自分の意見を聞くか聞かないか」で人を判断する人物だったからです。またこの事件は、19年後に2人がスターリンに粛清される原因の1つともなります(「第1回モスクワ裁判」「16人裁判」)。

カーメネフ「怒られた……」
ジノヴィエフ「『プラウダ』に原稿を書いてなだめましょう。私たちとレーニンさんの意見の違いは、ほんの少ししかない……と」
スターリン「問題は解決済み……と、注釈も加えておきましょう」
トロツキー「いや、それはよくない」
スターリン「え?」
トロツキー「余計な注釈を加えないで。意見の相違があるのも事実でしょう」
スターリン「……(融通の利かない奴)」

実のところ、ボリシェヴィキの内側はなかなか安定しませんでした。カーメネフをはじめとする右派との間に相違があったのです。ちなみにH・E・ソールズベリーは、「およそ権力奪取を図る一団が、こんなにバラバラなのはそう滅多にお目にかかれない」と評しています。もっともこれは、派閥が3つも4つも存在したメンシェヴィキ(左派から右派の順で、新生活派、国際派、革命的祖国防衛派、祖国防衛派。マルトフは国際派)や社会革命党(左派、中央派左派、中央派右派、右派。ケレンスキーは右派)に比べれば、マシではありましたが。



(3)

では、ペトログラード中の新聞が「ボリシェヴィキの蜂起はいつだ?」と書き立てる中、臨時政府は一体何をしていたのでしょうか。

ケレンスキー「レーニンなんて放っておけ。そんなことより、ドイツ軍が来るよー」

9月には、ドイツ東部軍が北部で攻勢に出てリガが陥落します。先述の軍事革命委員会は、本来ドイツ軍の攻撃から首都を守る組織です。ケレンスキーは、レーニンを過小評価していたと言われています。ともあれ、ボリシェヴィキはトラブルを抱えつつも蜂起の準備を行っていました。そして、その日が来るのです。


(つづく)




にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ



FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

リサイクルとは、お金ではなく資源の節約の問題ではないのか。

「リサイクルなんて、新品を作るよりもコストがかかるからやめた方がいい」という声を、しばしば耳にする。例えば、『リサイクルは資源のムダ使い』(小若順一、食品と暮らしの安全基金・著)では、槌田敦さんがインタビューに対して「ペットボトルのリサイクルというのは、600円分の人手や石油を使って、3円の不純物だらけのペットフレークを生産することなのです」と答えているし、『ほんとうの環境問題』(池田清彦、養老孟司・著)では、池田清彦さんが「(リサイクルのために)分別をするのにもエネルギーが要るし、金も要るし、人手も要る」と書いている。

もちろん、リサイクルを十把一絡げにすることはできない。リサイクルと言っても様々な種類があるし、何をリサイクルするかによっても変わってくるかも知れないからだ。加えて言うと、そもそもリサイクルの定義自体が人によって異なっている(※注)。

しかし、そうした厄介さを理解しつつも、先述の槌田敦さんや池田清彦さんの議論に対して、私はどことなく違和感を捨て切れない。それは、リサイクルのコストを「エネルギー量や資源量」ではなく「価格」で判断しているのではないか、という懸念である。なぜなら、私が考えるリサイクルとは、お金の節約の問題というよりも、資源の節約の問題であるからだ。仮に新品を作るよりお金がかかるとしても、資源が節約されるのならば、それはやるべきことなのではないのだろうか。

一方で、武田邦彦さんによる次のような議論もある。彼は自著『リサイクル幻想』の中で、「『物質、エネルギー』という物質的な量と『コスト、価格』という社会的な指標が比例関係にある」と述べている。つまり、「価格」を「物質やエネルギーの負荷量」のシグナルだと見ているわけである。しかし、やはりリサイクルとは、「価格」というよりも「エネルギー量や資源量」で比較されなければならないのではないだろうか。ましてや、両者が混同されてはならないように思う。



◆AKB48「3つのRで地球を救え!」
 
  “Reduce”と書いて「大量購入」と読み、
  “Reuse”と書いて「一度も聴かない」と読み、
  “Recycle”と書いて「産業廃棄物」と読む。



(※注)
例えばペットボトルの場合、リサイクルの種類としては、再びペットボトルを作り出す「ケミカルリサイクル」(水平リサイクル)、繊維など他の原料に変える「マテリアルリサイクル」(アップワードリサイクル)、ペットボトルを燃やしてその熱を利用する「サーマルリサイクル」がある。

ちなみに、政府の公式な立場では「サーマルリサイクル」も文字通りリサイクルであるが、一般的には「サーマルリサイクル」はリサイクルには含まれない。また多くの場合、「マテリアルリサイクル」はリサイクルに含まれるが、武田邦彦さんは「ケミカルリサイクル」しかリサイクルとして認めていない。個人的には、「マテリアルリサイクル」や「サーマルリサイクル」では“ペットボトルというモノ”は循環しないので、「ケミカルリサイクル」だけをリサイクルだとする武田さんの説が妥当なような気がする。





にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ



FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

「人間の生に対する二重の支配」論

(1)

私たち人間の生には、2つの側面があるように思う。1つは「人間的な生」、もう1つは「動物的な生」である。「人間的な生」とは、規律やイデオロギーといった分野に関わる生の在り方であり、一方の「動物的な生」とは、生命や健康といった分野に関わる生の在り方である。

従って、私たちを支配する技法の在り方についても、「人間的な支配」と「動物的な支配」の両側面があるように思う。「人間的な支配」とは、時間は守りましょうとか、赤信号では止まりましょうとか、人の物を盗んではいけませんとか、戦争をする際には宣戦布告をしましょうとか、そのような私たちの意識や価値観に入り込んでくる支配の在り方である。動物にはない理性や感情といった人間に独自のものに作用するという意味で、「特殊な支配」と言ってもいいかも知れない。一方の「動物的な支配」とは、私たちの健康を維持・増進し、生命を持続させるような支配の在り方である。これは動物一般が生きていく上で必要不可欠なものに作用するという意味で、「一般の支配」と言ってもいいかも知れない。



(2)

こうした二項対立の図式は、必ずしも私・ばたおの突飛で勝手な思い付きというわけではなく、ミシェル・フーコーの『性の歴史Ⅰ 知への意志』においても確認することが可能である。すなわちフーコーによれば、「人間的な生」を対象とする「人間的な支配」とは、「身体の調教、身体の適性の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体への組み込み、こういったすべてを保証したのは、規律を特徴づけている権力の手続き、すなわち人間の身体の解剖-政治学」のことである。そして「動物的な生」を対象とする「動物的な支配」とは、「繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。それらを引き受けたのは、一連の介入と、調整する管理であり、すなわち人口の生-政治学」のことである。

フーコーは、前者を〈規律を訓育(訓練)する権力〉という意味で「規律権力」、後者を〈生命を管理する権力〉という意味で「生権力」と定義している。もっとも『知への意志』をより正確に読めば、フーコーは前者を「規律権力」、後者を「(狭義の)生権力」、前者と後者を合わせて「(広義の)生権力」と定義し、前者と後者が相補的なものであることを主張しているようである。しかし、ここではそういった議論には立ち入らない。なぜなら、私たち一般市民にとって重要なのは、無意味な知識ではなく、実際的な知恵であるからだ。フーコーの文献学的な研究はインテリに任せることにしよう。

さて規律権力は、私たちを「個人」として微細に捉え、規律を訓育(訓練)することによって主体化する。もっとも、主体化を裏から言えば、臣民化・服従化・隷属化ということになる。つまり、ここで言う主体とは、「自由で自律した主体」というよりも「権力に自発的に服従する主体」という意味合いが強い。こうした主体を構成するという権力の在り方は、私たちの身体を規格化・均質化・規範化・正常化するというものであるため、これを「質の支配」ということもできるだろう。一方の生権力は、私たちを「人口」として集団的に捉え、統計学的に管理・調整する。生物としての人間から様々なリスクを遠ざけ、安心して生きていくことを保障するのである。こうした権力の下では、もはや私たちはただの「数字」に過ぎないため、これを「数の支配」ということもできるだろう。


●一瞬で分かる、ここまでのまとめ

人間的な生      ――  動物的な生
人間的な支配     ――  動物的な支配
特殊な支配      ――  一般の支配
身体の解剖-政治学  ――  人口の生-政治学
規律権力       ――  生権力
質の支配       ――  数の支配



(3)

「人間的な支配」と「動物的な支配」――。私たちの生は二重に支配されている。つまり、私たちはイデオロギーを注入され、健康の維持・増進によって生命を持続させられているというわけだ。両者は、どちらが良くて、どちらが悪いという性質のものではないだろうが、現在は「人間的な支配」が強められ、「動物的な支配」が弱められているという状況にある。なぜなら、様々な社会保障が削られる一方、「国を愛しましょう」とか「家族は仲良くしましょう」といったような道徳論が憲法に書き込まれようとしているからだ。

私たちの生が2つの側面から成り立っている以上、支配の在り方も2つあって当然である。重要なのは、そのバランスであろう。しかし現在、それが崩れつつあるのではないか。よって私たちは、そうした二重の支配におけるバランスの調整を、政府に要求していかなければならないのかも知れない。




にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ



FC2ブログランキングへ



コメント:を見る(0)

コメント:を書く

▲このページのトップへ戻る

プロフィール

ばたお

Author:ばたお
・1983年大阪府生まれ。大阪府河内長野市在住
・半自給農民、工場非常勤。できるだけ稼がず、できるだけ消費しません。シェアハウス運営
・土と暮らし研究会

【ツイッター】@BATAO_Hetare
【スカイプ】batao2.0
【PCメール】ba1234tao@gmail.com

Twitter

最新記事

全記事表示

記事検索

月別アーカイブ

カテゴリ

半農半活動 (22)
脱競争・脱成長 (27)
社会運動 (16)
家庭菜園 (68)
ばたおの「超意欲的ニート」生活 (34)
食料問題・農業問題 (22)
思想 (88)
文化 (36)
科学 (15)
社会 (106)
労働・貧困・経済格差 (84)
メディア (31)
原発・エネルギー (57)
憲法改正問題 (9)
国際 (45)
ばたお的議会改革案 (8)
「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感 (7)
「分かりやすさ」の陥穽――『おいしいコーヒーの真実』を批判する (6)
ポストモダン歴史学の批判的検討 (13)
格差肯定論――階級間平等社会へ (4)
新自由主義と正社員 (7)
ばたおの「現代政治学」案内 (5)
社会学としてのライトノベル論 (16)
AKB48関連 (90)
ハイコンテクストとしての平嶋夏海論 (14)
ゴリマがつくる「事実」――平嶋夏海なき平嶋夏海論 (4)
AKB48平嶋夏海・解雇関連 (19)
「平嶋的なもの」を解体する――間接的な平嶋夏海擁護論 (7)
渡辺麻友から読む平嶋夏海 (7)
SKE48松村香織とサイバー空間 (11)
平嶋夏海と松村香織 (1)
HKT48騒動 (9)
ボリシェヴィキの結成とロシア革命 (9)
高校生日記 (5)
ばたおの〈マジキチ読書〉 (22)
ばたおの〈マジキチ映画鑑賞〉 (1)
ばたおとだめお (12)
ツイートまとめ(1) (150)
ツイートまとめ(2) (150)
ツイートまとめ(3) (150)
ツイートまとめ(4) (150)
ツイートまとめ(5) (30)
未分類 (16)

最新コメント

最新トラックバック

アクセスカウンター

リンク

ブロとも申請フォーム

にほんブログ村

FC2ブログランキング

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。