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パックン「安保法案の採決、強行じゃないからこそ怖いのかもしれない」

●2015/7/31  安保法案については、アメリカ人だから語りません――パックンのちょっとマジメな話

僕らアメリカ人が日本の安全保障問題について、しつこく意見を述べたりすると、日本の皆さんはむかつくかもしれない。「そもそもいまの憲法を押し付けたのはアメリカだろ!」と反発する人もいれば、「集団的自衛権を求めているのはお前たちだろ!」と反発する人もいるでしょう。どちらも否定しづらいし反論しづらい。だから、今回は安保法案に関して自分の立場をわきまえた上で、個人的な意見は控えさせていただきます。反対だけどね。でも「反対だ」とは言わない。「敵国の少ない日本が集団的自衛権を実行し、敵国の多いアメリカとつながれば、日本がより危険な状態になると思う」という自分の考え方も説明しない。「武装して勢力の均衡を保とうとする場合、相手が核保有国だったら、こちらも核保有国になる必要さえあるのでは?」という疑問もぶつけない。そんな個人の見解をここでは一切書かないことにしよう(では、本題へ)。

先日「そこまで言って委員会」(読売テレビ)に出演していた元アメリカ外交官のケビン・メアさんが、安保法案の衆議院採決について「なんで強行採決という言葉をつかうんですか?」という単純な質問をしていた。確かにアメリカ人の感覚で言えば、多数決で採決するのは当然のことだ。でも、日本とアメリカのシステムはずいぶん違う。それを理解すれば「強行」という言い方の裏にある"反発"がわかるかもしれない。その辺をゆっくりケビンさんに説明したかったが、番組のエンディング間際のことで時間がなかった。というか、僕は番組に出ていない。そもそもケビンさんとは面識がない。ケビンさんはおいておくとして、日本の皆さんは、日本の立法、司法制度の独特さをどれぐらい知っているのかな? よければ一緒に考えよう。民主主義下で政府の権力乱用を防ぐ「抑止力」は、主に2つある。それは憲法と民意だ。この2つは、どこの民主主義国でも政府の暴走を止めるブレーキ役となるはずのもの。しかし、日本ではどちらも機能していないように見える。なんでだろう?

まずは憲法について。そもそも日本政府が自由奔放に武力行使を行えないのは、憲法第9条によって制限されているからだ。安倍首相はもともと憲法改正を目標に掲げていたが、9条を変えるのはかなり難しそうだった。そこでハードルを下げるため、憲法改正の手続きについて定めた96条の改正を目指すことにした。96条に定められた憲法改正の要件のうち、発議に必要な「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」とあるのを議員の過半数の賛成でもOKにしようとしたわけだ。しかしそれにも苦戦してしまった。安倍首相は結局、改憲せずに解釈を変更することで武力行使ができると主張し、安保法案の立法に踏み切った(長年連れ添った夫婦の片方が、急に「結婚制度の解釈変更で不倫ができる」と主張し始めた・・・・・・みたいな感じがするが、僕はそんなことは言わない)。もちろん安保法案が違憲であれば破棄されるはず。それが憲法の抑制力。しかし違憲立法審査を行うのは最高裁判所。ここに日本の特徴が出てくる。日本の最高裁は韓国のような「憲法裁判」ではない。さらにほかの国のように抽象的違憲審査制を採用していない。日本では、特定の事案がないと違憲かどうかを審査できないのだ。実際に海外派遣などで自衛隊員が死亡し、その遺族が裁判を起こしたりするまでは、裁判で安保法制の合憲性を検証することができない。しかも歴史的に、防衛関係の裁判に関しては「高度な政治判断だ」とし、憲法判断を下さない傾向がある。ブレーキのひとつは利いていないも同じだ。

では、民意はどうだろう。選挙で選ばれた議員が民意に沿って活動するというのは、どこの民主主義国にとっても基本の仕組みだ。しかし最近、日本では民意に反する政策が目立っている。記憶に新しいものだけでも、特定秘密保護法、原発の再稼動、米軍基地の移設、労働者派遣法などなど盛りだくさんだ。また、今回の安保法案に関しても、たとえば自衛隊の活動範囲が「非戦闘地域」から広げられることや「日本周辺」という文言が外されること、議員の事前承認が不要になることなどの内容には、国民の過半数が反対している。各種世論調査からも、そうした状況は政府に伝わっているはず。それなのに、止まることはない。「国民の理解が進んでいないのは事実」と認めながらも法案を採決した。なぜそんなことができるのか? ここにも日本の独特さがある。それは、立法権が衆議院に集中しているということ。参議院で否決された法案でも、衆議院の3分の2の票があれば再議決ができる。67%の議席数は高い基準と思われがちだが、衆議員は総選挙で全員同時に決まるから、そのときの出来事や特定の時勢など一時的なファクターでひとつの政党が圧倒的な議席数を一気に勝ち取ることができる。去年の総選挙もそんな「今だ!」感が強かったよね。アメリカの場合は、下院、上院、大統領の3つの判子が押されないと法律にならない。そして、この3つの判子の在り処が同じ政党で揃うことはめったにない。日本では数年前の「ねじれ国会」がもの珍しかったけど、アメリカの政府は普段からねじれまくりだ。もちろん、対立している大統領の拒否をくらっても、両院の3分の2の票決で法を通すことはできる。しかし、上院議員は各州の代表であり総選挙では選出されないから、一気に議席数が変わることも珍しい。上院では、野党が大体4割以上の議席を持つ。それで再議決だけではなく、端から議事妨害を行いどんな法案の立法をも阻止できる。日本ではブレーキが利いていない面があるが、アメリカではブレーキが利きすぎているとも言える。でも、少なくとも権力乱用の抑制は可能だ。

もうひとつ忘れてはいけない独特さは、日本が「事実上」一党制に近い状態にあるということ。ほかの国は野党と与党が定期的に入れ替わることが多く、与党の危機感が常に高い。いつ政権を失ってもおかしくないからこそ、民意にアンテナを張っている。日本はこの70年間で総理大臣がころころ変わっている。が、自民党が与党から外れたことは2回しかない。政権交代の恐れがなければ、与党が民意に沿う必要をあまり意識しないかもしれない。「フラれてしまうかも!」と思って初めて彼女を大切にする男もいるよね。そんな感じ。

こうやって司法や立法制度の特徴を並べてみると、ブレーキが働かない理由がわかるよね。その実態の恐ろしさが「強行採決反対」の裏にあるのかもしれない。確かにケビンさんの言うとおり、今回の安保法案採決は「強行」じゃないのかも。ルールに基づいた単独採決だ。でもそれで本当にいいのか。仮に安保法案は正しいとしても、次に出てくる法案はどうかな? その次は? 抑制がないままだと・・・・・・法案が間違っていても、違憲であっても、民意に反していても、同じく採決はできるということになる。与党の思うままにすいすい通せるってわけ。実は強行じゃないからこそ、怖いのかもしれない。





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小熊英二「自分の人権に鈍感な者は、他人の人権にも鈍感である」

●2015/1/13  人権への意識 耐え忍ぶ美徳のワナ 小熊英二――朝日新聞デジタル

自分の人権に鈍感な者は、他人の人権にも鈍感である。ましてや、異邦人の人権に対してはなおさらだ。

日本社会に、アジアへの戦争責任意識が弱いのはなぜか。吉田裕はその一因として、「戦争受忍論」が根強いことを挙げている(「歴史への想像力が衰弱した社会で、歴史を問いつづける意味」世界1月号)。日本の民衆は、無謀な戦争で家族が死んでも、空襲で家が焼けても、「戦争だから仕方がない」と耐えていた。政府に抗議することも、アメリカを憎むこともない。評論家の清沢洌はこれを評して、「日本人の戦争観は、人道的な憤怒が起きないようになっている」と形容した。

こうした戦争観は、アジアの戦争被害への鈍感さにつながる。自分が黙って耐えているのだから、彼らも黙って耐えるべきだ、と考えるからだ。

日本の戦争被害者のなかには、「(朝鮮人の)慰安婦はずるい」と述べる人がいる。そうした言葉を発するのは、「日本人従軍慰安婦」であったり、引き揚げ時に強姦にあい中絶した旧満州居留民女性であったりする(有田芳生・北原みのり・山下英愛「私たちの社会は何を『憎悪』しているのか」世界11月号)。自分自身が声を上げられずに耐えてきた屈折が、声を上げる他者への憎悪につながるのだ。

こうしたことは、戦争責任の問題だけではない。外国人労働者の人権についても言えることである。

安田浩一「外国人『隷属』労働者」(G2第17号)は、ある縫製工場が、外国人技能実習生に課した「契約書」を紹介している。その内容は、無断外出・恋愛・妊娠・携帯電話購入などを禁じ、違反したら罰金徴収のうえ即時強制帰国させるというものだ。

こうした「契約書」が存在するのは、外国人技能実習生の法的地位のためでもある。技能実習制度では、3年間の契約期間中は雇い主を変えることが難しく、雇い主の立場が圧倒的に強い。アメリカ国務省の幹部は、「米国の基準であれば、あれは人身売買以外の何物でもない」と形容したという。

だがこうした人権無視の内規は、外国人が対象の場合だけだろうか。1954年の「近江絹糸争議」で、日本の女性工員たちが告発した紡績工場の内規は、これとあまり変わらない。

あるいは、一昨年に話題となった女性歌手の「丸刈り懺悔」はどうだろう。この事件は、所属するアイドルグループの「ルール」に反して恋愛をした歌手が、頭髪を刈って謝罪した映像がネット上で公開されたものだ。これは人権侵害ではないかという指摘が一部にあったが、そうした認識が日本社会全体に共有されたとは言い難い。

またあるいは、「ブラック企業」の内規はどうだろう。あるIT系企業では、新入社員研修で「会社ではすべてのルールは上司にある」という趣旨の「理念書」を大量に読ませ、長期拘束で疲労状態に追い込んだうえで、労働契約書を書かせているという(「ブラック研修の事例紹介」POSSE24号)。

こういう環境で働く人々は、外国人研修生の状況を知っても、「よくあること」としか考えないだろう。そこで黙って耐えている人々に、外国人労働者や「元慰安婦」の人権を守れと説いても、「ずるい」「なぜ外国人ばかり優遇するのか」と反応されかねない。

自分の人権が尊重された経験がない者は、他人の人権も尊重しない。日本の民衆自身が不当な状況に声を上げる経験を積まなければ、外国人の人権を尊重する機運は高まらないだろう。

日本は戦後70年を迎えた。労働環境、女性の地位、貧困と格差、歴史認識など課題は多い。だがそれらは、決して相互に無関係な問題ではない。共通して問われているのは、この70年で、日本社会にどれだけ人権意識が根付いたかに他ならないからだ。





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仲正昌樹「訳が分かっていないのに、『ポモはダメ!』と言いたがる残念な人達」

●2015/7/5  仲正昌樹「訳が分かっていないのに、『ポモはダメ!』と言いたがる残念な人達」――月刊極北

自然科学における論争と違って、人文系の学問の論争は、クリアに決着が付かないことが多い。簡単に言うと、自然科学系の多くの問題は、実験とか計算、事実の観察によって、決着をつけることができるが、人文系では、それに相当するものがない。心理学のように、組織上は文学部に属していても、実験や臨床研究に重きを置く分野もあるが、これは例外だろう。経済学や社会学など、社会科学の一部の分野には、統計的データによってそれなりの決着を付けることができる問題もある。文学、歴史、哲学といったいかにも人文的な分野の主要な問題は、具体的な証拠を持ち出して白黒つけることはできない。歴史学や、文学の文献学的研究では、具体的な史料が重視されるが、史料だけで決着が付くのは、誰がいつどこで生まれたとか、この文章の実際の作者は誰かといった、細かい事実関係に関する問題くらいである。そういうことだけで、歴史や文学の研究がなり立っていると思っている、まともな研究者やその予備軍はいないだろう--“民間研究者”のつもりで、大学に所属するプロに対して、歴史豆知識クイズのようなものを挑みたがる輩ならいるが。

「存在とは何か?」とか「人生に意味があるのか?」「道徳の源泉は何か?」といった抽象的な問題を様々な角度から論じる哲学は、人文系の分野の中でもっとも決着を付けにくい分野だろう。カントとヘーゲルでさえ、議論の枠組がかなり異なる。ハイデガーやレヴィナスの存在論と、英米系の分析哲学では、お互いに言葉が通じないことが多い――念のために言っておくが、英語vs.独語というようなレベルの話ではない。にもかかわらず、時々、知ったかぶりして、「○○論はもうとっくに終わったはずなのに。△△はまだ、○○論が有効だと思っているんだろうか。周回遅れ(笑)!」、というような調子の文章をネット上に書き込んで、得意がっている輩をたまに見かける――「ドヤ顔」と言った方が分かりやすいのだろうが、私はこの関西っぽい下品な響きの言葉に抵抗感がある。

その手のからかいのターゲットになりやすいのが、「マルクス主義」と「ポストモダン」である。マルクス主義の場合、哲学というより、実践の思想という面が強く、かつマルクス主義者自身が実践と理論は一体だと主張してきたので、実践面での失敗や挫折――ソ連や北朝鮮の実態、左翼運動の自己解体と内ゲバ等――を“根拠”にして、その哲学としての有効性をも疑問に付すというのは、学問的に見れば飛躍だが、気持ちとしては分からないこともない。しかし、「ポストモダン系」と呼ばれる――あるいは、そう呼ばれていた――思想には、そうした分かりやすい実践との強い繋がりはない。ガタリやネグリ、後期デリダなどの研究をしている人たちは、左派的な立場から、思想と実践の繋がりを強調することがあるが、それは“ポストモダン系”の全般的な特徴ではないし、そうした“ポストモダン左派”的な人たちは、“ポストモダン派”と呼ばれることを嫌がる傾向がある。

「ポストモダン」と名が付くものは、思想業界の人たち――あるいは、業界人ぶっている輩――からバカにされることが多い。しかしその割に、「ポストモダン」とは何なのかはっきり分かっている人はあまりいない。何となくカルソウに見える思想を、「ポモ」とレッテル貼りしたがる輩が多いが、この手の連中には、「カルイのはおまえのカボチャだ!」、とでも言ってやるしかない。

明確な定義があるわけではないのだが、私の理解では、フランスで六〇年代に台頭した構造主義、及び、その成果を踏まえたうえで、限界を指摘し、乗り超えようとしたポスト構造主義の系譜を引く、哲学や評論の活動を指す。マルクス主義のように共通の信条や理論的前提があるわけではないが、①理性的な自我を起点とする近代知への挑戦②進歩史観の拒絶③哲学、文化人類学、精神分析、文芸批評、記号学などにまたがる学際性④ポスト工業化社会における新たな“主体”像の探究――の四点くらいを、大凡の共通の特徴として挙げることができるだろう。

それほど明確な共通性ではないので、「ポストモダン」という呼称を使うのはおかしいと言う人がいる。素人だけでなく、哲学・思想史、文芸批評を専門としているはずの大学教員の中にも、玄人ぶって、そう言いたがる輩がいるが、私に言わせれば、特定の呼称を使うことそれ自体を問題にするのは、バカの証拠である。呼称というのは、何らかの対象や現象、傾向をうまく要約し、特徴付けるために使われるものである。その呼称によって名指されているはずのものが実在しないとか、そのようなものを想定して議論をすると不都合が生じる、聞き手に誤解を与える、といった問題を指摘するのであれば、意味ある批判だが、漠然と、「そんな概念使うことに意味あるんですかねえ~」とか言って、批判したつもりになっているのは、ただのバカである。ポストモダンに限らず、唯物論、観念論、プラトン主義、形而上学、カント主義、ヘーゲル主義、ロマン主義、功利主義、新カント学派、マルクス主義、実存主義、プラグマティズム、分析哲学など、ある哲学・思想の傾向をまとめて名指す呼称は、何某かの曖昧さを含んでいる。どういう場面でその呼称を使ったら、どういう不具合が生じるのか指摘しないと、単なる言葉の趣味の話でしかない。

「ポストモダン系」と呼ばれてしかるべき思想の系譜があることを一応認めたうえで、それを“批判”する人たちもいるが、その人たちの大半は、名称に拘る連中以上に見当外れである。その見当外れには三つくらいのパターンがある。

第一に、左翼や自称保守主義者たちによる、「ポストモダン思想は、資本主義や社会主義に変わるオルターナティヴを呈示することができなかった」、というタイプの“批判”がある。これは、“ポストモダン”が元々マルクス主義やリバタリアニズムなどと同様に、社会変革のための実践の思想であった、という前提での“批判”だが、先ほど述べたように、そういうことをやろうとしたのは、ポストモダン系と呼ばれる思想家の中の一部である。その一部の人たちも、資本主義に取って替わる新しい社会の構想のようなものを明示したわけではない。ポストモダン系と呼ばれる社会理論は、ポスト工業化の時代には、社会構成が多様化し、主体形成のモデルが不明確になっていることを指摘することが多いので、“オルターナティヴ”のような話には繋がりにくい。むしろ、マルクス主義にとっての共産主義社会のようなものを描くことが困難になったことを示唆するのが、「ポストモダン思想」である。「オルターナティヴを示すことができなかった」式のことを言っている人は、哲学・思想は、社会変革のための“オルターナティヴ”を示さないと価値がないと思い込んでいるのだろうが、そんなことを言うのであれば、「哲学」という名の下に大学で研究されているものは全て無価値である。更に言えば、そんな分かり切ったことを、偉そうな顔をしてほざいている人間の存在自体が無価値である。

第二に、“ポストモダン系の連中”はふまじめだとか、不勉強だ、場当たり的に適当なことばかり言っているなどと見なし、それをもって思想そのものまでも否定しようとする印象論がある。恐らく、浅田彰とか東浩紀、最近だと国分功一郎、千葉雅也などに憧れ、文芸批評家とかアニメ批評家になりたがっている連中、あるいは、既にそうした“批評家”になったつもりの連中を念頭に置いているのだろうが、何かのブームにのってスターになった人に憧れ、その真似をしたがるイタイ連中が出て来るのは、「ポストモダン系」に限った話ではない。実際、アーレントとかレヴィナスとかピケティとか小林秀雄とか上野千鶴子とか佐藤優とか古市憲寿の真似をしてデビューしたつもりになっている自称評論家は、ネット上に腐るほどいる。この手のバカで不愉快な信者、エピゴーネンが多いからといって、当人を責めるのは見当外れの極みだろう。

「ポストモダン系」に特有の問題があるとすれば、哲学を始めとする既存の知の体系の権威失墜・解体を肯定的に評価したり、浅田彰の「スキゾ・キッズ」論に象徴されるように、不安定な生き方を称揚するようかのような論調を広めたりしたので、勘違い人間を多少後押ししているということくらいだろう。しかし、それはあくまで、「多少の後押し」にすぎない。哲学者や評論家といった肩書が持つ意味が相対化したのは、社会の変化によるもので、ポストモダン系の思想家たちのせいではない。また、ポストモダン系の思想家の一部が、思想や評論のプロとアマの区別を相対化するようなことを言ったからといって、ネット上で勝手に“思想家”や“評論家”を名乗る人間が、ちゃんとした媒体に文章を発表し、職を得られる機会が増えるわけでも、多くの人から認められる保障が与えられるわけでもない。むしろ、そういう機会や保障などない、と言って、突き離してしまうのが、ポストモダン系の思想であろう。若手評論家養成プロジェクトのようなことをやっている、ポストモダン系論客もいるが、それで救われる人がいても、ごく少数なのは最初から分かり切っている。

いずれにしても、勘違いしているバカを生み出した元凶だといって、ドゥルーズ、フーコー、デリダ、リオタール、スピヴァックなどのテクストに価値がないかのように言うのはバカげている。彼らのテクストはあまりにも難解で、勘違いしているバカにも、その連中の大量発生に文句を言っている連中にも、理解できるものではない。“元凶”とされている思想家の主要なテクストを読みもせずに、「バカの教祖もバカに違いない」式の単純な連想で、文句を言うのは、バカの上塗りである。

第三に、「ポストモダン・ブーム」が終わり、「ポストモダンの○○」というような言い方があまりかっこいい響きをしなくなったことをもって、「ポストモダン」が何らかの論争に敗れて、失効してしまったかのように思い込んでしまうということがある。冒頭に述べたように、哲学の論争や学派の対立に、明確な勝ち負けなどない。一方の立場の支持者が増えてきて、他方が流行らなくなったら、何となく、前者が勝ったように見えるだけである。しかし、そういう意味での勝ち負けを問題にするのなら、プラトン、カント、ヘーゲル、ニーチェなどの哲学は何度も負けては、復活している。また、哲学者が他の哲学者の理論を受容する場合、そのまま受容するのではなく、自分なりの修正を加えているのが普通である。デリダとかドゥルーズの主張の一部に何らかの欠陥が見つかったとしても、それで彼らの理論全てが否定される、ということはまずない。

ポストモダン思想が“敗れた”と信じている人たちの多くは、「ソーカル事件」に言及する。ただし、ソーカル事件がどういうものだったかちゃんと理解している人は少ない。「何かすごい事件があって、ポモの欺瞞が暴露されたらしい」、という程度の幼稚な“理解”しかしていない輩が多い。この事件の概要をごく簡単に述べておくと、ポストモダン系の哲学者・評論家が、科学の専門用語を適当な比喩的意味で使っていることが多いことに、物理学者のアラン・ソーカルがポストモダン系の知識人をからかうためのイタズラ論文を書こうと思い立ったことが、発端だ。ソーカルは、ポストモダン系の哲学者や社会学者の言説と量子力学の基本的考え方が相通じていることを明らかにすることを謳った、「境界を侵犯する――量子重量の変換的解釈学に向けて」といういかにもそれらしいタイトルの論文を書き、数学・自然科学系の専門用語らしきものを適当に並べたてた。それをポストモダン系の思想雑誌に投稿したところ、見事採用されてしまった、というものである。ソーカルたちは、これによってポストモダン系の学者たちの欺瞞が明らかになったとして、大体的に批判キャンペーンを繰り広げた。ポモ批判の人達は、このことを金科玉条のようにふりかざし、「ポモ思想に未だにしがみついている仲正は、ソーカル事件で、その欺瞞が明らかにされたことを知らないのだろう。バカだね(笑)」、とか言いたがる――念のために言っておくと、私はいろんなところでフーコーやデリダを参考にしているが、「ポモ」を信仰しているわけではない。

しかし、ソーカル事件は、哲学の根幹に関わる問題ではない。かなりトリビアルな話である。ソーカルに名指しされているラカン、ドゥルーズ、ボードリヤール、クリステヴァなどが、物理学や数学などの最新の研究成果に関して、科学哲学・メタ理論的な見地から論評する論文を書きながら、元になっている研究の基礎的な概念を間違って使っていたというのであれば、致命的だが、彼らは記号、主体、欲望、無意識などについて論ずる文脈で、自然科学の概念を比喩として借用しているだけであり、全体の論旨にはあまり影響しない。確かに、よく分からない分野から比喩表現を借りてくるのは軽率だが、著者の軽率さをもって、理論や主張を全て否定しようとするのは飛躍である。例えば、ホッブズが自然状態において「人は人に対して狼である」と述べていることや、ルソーが描く、孤独に生きる野生人のイメージは、動物生態学や人類学の見地から見て出鱈目もいいところだろうが、それをもって、彼らの社会理論を全否定しようとするのは、バカげている。ベルグソンの進化論理解がおかしいと言って、彼の哲学を似非科学だと言ったり、プラトンの対話編に神話が出て来るからといって、彼の哲学を迷信だと片付けるのは、ナンセンスである。彼らのテクストをちゃんと読めば、論の中心がそんなところにないのは明らかだからである。

一見単なる比喩に見えるものが、実は議論の本質に影響を与えているという指摘であれば、傾聴に値する――ポストモダン系の思想は、テクストの中での中心と周縁の関係の逆転のような問題に強い関心を寄せる。しかし、ソーカル事件に拘るような人たちは、そういう本質的な議論をするわけではない。ドゥルーズやボードリヤールの議論の本筋が見えないので、自然科学系の言葉の使い方のようなトリビアルなことにだけ眼が行ってしまうのであろう。理系の学者が、人文系の難しい論文を読むと、そういう反応をすることが多い。そうした理系学者の単純な反応に、知ったかぶりの自称評論家たちがのっかって、「ポモ」の悪口を言っているのである。心理学者や認知(脳)科学者であれば、認識論の問題と全く無関係とは言えないが、フッサールやメルロ=ポンティの仕事が、現代の心理学や認知科学の成果と相いれないなどといって“批判”しようとするのであれば、見当外れである。フッサールやメルロ=ポンティは、自分たちの研究の領域は、心理学のそれとどのように違うか繰り返し説明し、自らの立ち位置を明らかにしている。そういうことを知らない、あるいは読んでも理解しないまま“批判”するような理系学者は、ネット上のバカな目立ちたがり屋と大差ない。

ポストモダン思想を批判したいのなら、大いにやればいいと思うが、その前に、自分が何を批判しようとしているのかちゃんと理解すべきである。妄想で批判すれば、確実に自分自身がバカになっていくだけである。





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左翼はなぜ劣化したのか

池田信夫さんによると、1960年代以降の日本の左翼は成長の分け前を求めるだけの分配共同体となり、劣化していったという。彼の問題意識はともかく、事実認識としては確かにそうなのだろう。もっとも、僕は現状において適正な分配論がダメだとは思わない。ただ、それは過渡的な要求でしかないという認識を持たない限り、やはり左翼の復活はないのかも知れない。


●2015/3/9  池田信夫「左翼はなぜ劣化したのか」――アゴラ

アゴラの宇佐美典也さんの記事が話題になっているが、私も最近の古賀茂明さんの言動をみて「日本の左翼はなぜここかまでだめになったのか」と暗澹たる気分になった

終戦直後の野党は自民党と拮抗する発言力をもっており、短期間だが社会党の片山哲が首相になったこともある。戦争に反対した共産党の知的権威は高く、戦後は多くの知識人が集まった。

しかし彼らのエネルギーは政権を取るよりも、党派闘争に向いた。1950年に「コミンフォルム批判」で主流派(所感派)と国際派に分裂し、主流派が火焔瓶闘争などの極左的な方針を打ち出した。これは当然のことながら政治的には大失敗となり、共産党は壊滅的な打撃を受けた。

東大細胞を中心とする学生は国際派の「分派組織」になり、のちには共産主義者同盟(ブント)として分裂した。これが60年安保の主役になった全学連主流派だが、幹部党員の中の東大グループは構造改革と呼ばれる中道左派に集まり、その中心が安東仁兵衛、上田耕一郎、不破哲三だった。

1955年の六全協で極左冒険主義は終わり、上田兄弟は党に戻ったが、安東などの右派は『現代の理論』を中心にして構造改革を提唱した。しかしマルクス=レーニン主義にこだわる党主流がこれを排除したため、右派は離党し、社会党の江田三郎などと合流した。

世界的にみると、これはイギリスの労働党やイタリアの共産党などと同じ社民路線で、この時期に社会党が構造改革に転換していれば健全野党になったかも知れない。しかし結果的には社会党の中でも社会主義協会のレーニン主義が主流になり、社会党は「憲法を守れ」という以外の政策をもたない党になった。

60年安保までの左翼が知識人の悔恨共同体だったとすれば、60年代以降の左翼は労働組合を中心として春闘で成長の分け前を求める分配共同体になった。国政レベルでも、社会党は政権構想も示さず、「安保・自衛隊反対」を繰り返してバラマキ福祉を求める党になった。

しかし労働者を豊かにしたのは労働組合の階級闘争ではなく、自民党と資本家の実現した経済成長だった。その成長が減速した90年代以降には、分配共同体としての労組も衰退し、非正社員との分裂が深まった。

こうして目標を失った左翼が、3・11で見つけたのが「原発反対」というスローガンだったが、その後の国政選挙の結果が示しているように、これはかつての憲法第9条ほどの求心力もない。これに飛びついた社会学者を中心とする「反原発文化人」も、こっそり撤退した。

こうして誰もいなくなった。残ったのはテレビのコメンテーターだけだ。かつて左翼の中心だった朝日新聞も、慰安婦問題で瀕死の重傷だ。彼らが完全に消滅したあとに、初めて日本の本当の問題を語れるときが来るだろう。





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おぎやはぎ小木「《努力は報われる》を成功者が言うのはダメ」

●2014/12/12  おぎやはぎ小木とAKB48高橋みなみ 「努力は報われる」理論で大バトル実現か!?――リアルライブ

11日深夜に放送されたラジオ番組「おぎやはぎのメガネびいき」で、おぎやはぎの小木博明が、AKB48の総監督を務める高橋みなみとのバトルを望んだ。

番組では、1年後にAKB48を卒業する事を発表した高橋みなみの話題に発展。相方の矢作兼はたかみなのことを「絶対いい子」と評価。しかし、AKB48に厳しい小木は「良い子風に見える人はあぶないからね」と反論。

今まで、小木はたかみなと1~2回ほどしか会っていないようだが、なぜかたかみなを敵対視。そもそも小木がたかみなを敵対視することになったのは、たかみなが発した「努力は必ず報われる」という言葉で、小木は「嫌いなんだよ。ああいうの。報われない」と真っ向否定した。

小木の理論は“努力は必ず報われるという言葉は、それは報われた側の意見”という主張で、「努力は必ず報われる」という言葉はアイドルで大成功したたかみなだからこそ言える事で、小木は「報われない人の方が多いんだから。成功者が言うのはダメだよ。報われないんだから、言っちゃいけないんだよ」と改めてたかみなの考えを否定した。

矢作が「努力は必ず報われるのか報われないのか、その話だけで決着つけて欲しい」と小木とたかみなの舌戦を望むと、小木も「そうね。そのへんは話し合いたいよね」と承諾。

矢作が「AKB卒業したらたかみな(番組に)出れるはずだよ。今は裏の局でやってるから。卒業しちゃったら、出ていいだよ」と説明。小木とたかみなの大激論は1年後に実現するかもしれない。



    あなたの努力は報われてきましたか?




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『カワサキ・キッド』――物を言うアイドル・東山紀之の“反ヘイト精神”

●2014/11/29  東山紀之が“反ヘイト本”を出版していた! 自らのルーツと在日韓国人への思いを告白――LITERA

「朝鮮人を殺せ!」「在日は半島へ帰れ!」

排外デモ、嫌韓本、ネット……あらゆる場所にあふれかえるヘイトスピーチ。差別的言動をいさめるどころか、野放しにし、ヘイト主義者たちと一体となり助長させている安倍ヘイト政権。いまの日本の差別国家ぶりには目を覆いたくなる現状だが、そんななかある1冊の本が“反ヘイト本”として注目を集めている。

東山紀之の自伝エッセイ『カワサキ・キッド』(朝日新聞出版、2010年刊)だ。東山といえば、ジャニーズ事務所所属のベテランアイドル。最近では私生活でも妻である女優の木村佳乃との間に二女をもうけ、ジャニーズアイドルとしては御法度の父親としての私生活もあえて積極的に語るなど、“物を言うアイドル”としての一面も見せている。

『カワサキ・キッド』は09年1月から1年4カ月の間「週刊朝日」に連載されたものだが、神奈川県川崎市で育った東山の極貧だった少年時代や、祖父がロシア人という出自など、それまで明かされなかった数々の秘話が告白されたことで当時は話題になっていた。しかし、刊行から5年のときを経た今あらためて同書を読み返すと、東山の“反ヘイト精神”が全編を通して貫かれていることに驚かされる。

「僕の一家は、川崎駅近く、ソープランドが密集する界隈の、父方の祖父母の家で暮らしていた」

同書を読み始めると、いきなりこんな記述が目にとびこんでくる。祖父も父親も大酒飲みで、ギャンブルにのめり込み、借金もあったという。そして、幼い東山は左足が変形するほどのやけどをおってしまう。

「祖父はロシア人の血を引いていた。大酒飲みで、昼間、理容師の母が仕事に出ている間に、酔っぱらって暴れ、ポットをひっくり返して、熱湯が僕の足にかかったのだ」

東山が3歳のときに、妹が生まれてまもなく、両親は離婚。東山は「僕のヤケドが引き金になったとも聞く」とも書いているが、母子3人が移り住んだのが、やはり川崎・桜本の小さなアパートだった。この地で最初に出てくるエピソードが在日コリアンとの思い出だ。

「僕たちの住む地域には在日韓国・朝鮮人の人々が多く暮らしていた。うちのアパートもそんなコリアン・タウンの一角にあった。近所には、日本名を名乗り、焼き肉屋を営む朝鮮人母子が暮らしており、僕より二つ上のおにいちゃんがいた」

「僕と妹が毎日、お宅にあがり込むと、おばちゃんはいつも店の豚足を食べさせてくれる。僕たちはそれにかぶりついた。貧しくてお腹をすかせていた僕たちは、あのころ、あの方々がいなかったら、どうなっていただろうと思う」

幼い東山と在日コリアン一家の交流。そして、自らもロシア人の血を引いていることへの複雑な思い。それは東山のその後に大きな影響を与えたことは想像に難くない。東山は小学校時代から差別への違和感をもち、虐げられている人たちに思いをはせるようになっていた。東山はこうふりかえっている。

「あのころ、桜本の在日の人々のほとんどが、本名を名乗れない状況にあった。地元の小中学校の近くに朝鮮学校があったが、日本人の子どもの間では、『朝校の生徒に会ったら鼻に割り箸を突っ込まれるから気をつけろ』などというデマが流れていたりした。僕は『そんなことないのに!』ともどかしくてならなかった」

そんな思いは最大の憧れである王貞治にも向けられた。

「日本のスポーツ界にも多くの外国人の血が流れている。芸能界でもさまざまなルーツの人々が活躍している。それでこそ豊かな文化が花開くのだと思う」「国籍の問題で国体に出られなかったことに黙って耐えたと知ったときはジーンときた」

当時、東山の生活はあいかわらず過酷で、母の再婚後は再婚相手のDVにもさらされていたという。貧しくつらいだけの少年時代。しかし、そんな東少年に転機が訪れる。小学校6年ももう終わろうという時、渋谷でジャニー喜多川に声をかけられ、芸能界デビューに向けレッスンを始めるのだ。

しかし、ここでも東山のまなざしは変わっていなかった。13歳になった東山はジャニーズ合宿所でマイケル・ジャクソンとブラックカルチャーに出逢うのだが、そのときのことを、こう書いている。

「奴隷として鎖に繋がれてアフリカから連れて来られた人々は、運動不足にならないよう足踏みをさせられた。そこでリズムを刻むのが彼らの唯一の自己表現だった。生き残った人々は道端に落ちていた王冠(栓)を足につけ、リズムを刻んで遊び、ささやかな楽しみにしたという。それがタップ(英語で“栓”の意味)の始まりと言われている。タップダンスとは、虐げられた人々の発散であり、魂の叫びだったのだ」

本書はその後、少年隊のデビュー、ジャニー喜多川や多くのジャニーズの先輩後輩との思い出、有名芸能人たちとの交遊、そして母親に背負わされることになる借金などの“秘話”が描かれる。しかし、そうした中、常に挿入されるのが変わらぬ“弱者”“マイノリティー”への思いだ。

例えば92年に主演した大河ドラマ『琉球の風』で初めて沖縄を訪れたときは、その歴史に思いを馳せる。

「十七世紀から今日までの沖縄の歴史をふり返ると、沖縄の悲劇は極端なものだと思う。国内で沖縄ほど虐げられた歴史をもつ場所もない。今日に至るまで人々の思いは見事なほどつぶされてきた。なのに、どうしてこんなに明るく、親切でいられるのか。その優しさの裏には底知れぬ悲しみがあると思った。それを経験している人々の強さと優しさなのだ」

また、広島のコンサート後に原爆資料館を訪れた東山はこんな決意さえしている。

「僕は韓国人の被爆者の人生に関心がある。差別のなかで、さらにまた差別を受けた人々はどんな人生をどんな人生観で生きたのだろう。演じることが許されるなら、その人生を演じてみたい。伝える必要があると思うからだ」

そして本書の最後、35年振りに桜本のコリアンタウンを訪れた東山に去来するのもまた在日の人々への想いだった。

「この街に戦前、朝鮮半島から来た人々が多く働いていたのも日本の重工業を基底で担っていたからだ。僕が幼いころは『ヨイトマケの唄』のように『エンヤコーラ』の掛け声に合わせて、泥の中でランニング姿で滑車の網を引いたり、ツルハシをかざしている人たちの光景をあちこちで目にした」「幼いころ、僕は在日の『シュウちゃん』の家に、毎日遊びに行っていた。焼き肉店をやっていたおばちゃんは、豚足とトック(おもち)をいっぱい出してくれた。いつもすきっ腹だった僕は、蒸した豚足に赤いコチジャン(唐辛子味噌)をつけてむしゃむしゃ食べた。温かいトックのうまかったこと!」「自分たちも貧しかったけれど、さらに貧しい人々を支えなければいけないという気持ちを大人も子どもも持っていたと思う」

なんと、真っ当なまなざし。ひるがえって、安倍首相はどうだろう。こうした虐げられた者、被差別者を一顧だにせず、一国の首相が「保守速報」というヘイトサイトをシェアし、拡散させている。「韓国はダニ」「中国はゴキブリ」といったヘイトスピーチをがなりたてるオトモダチの宮司の本を「日本人の誇り」「世界一の日本人、世界一の国家をめざして進むための道標」と大絶賛している。

安倍よ。一度、東山の本を読んでみるといい。頭の悪いオマエでも、どちらがまともで誇りある日本人なのかがよくわかるはずだ。





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今どきの学生がなぜ過激派に走るのか? 中核派系全学連委員長インタビュー

●2014/12/2  今どきの学生がなぜ過激派に走るのか?【中核派の若者に直撃インタビュー】――日刊SPA!

11月13日、100人を超す機動隊員が京都大学の学生寮「熊野寮」に突入した。警視庁公安部による家宅捜索である。この一件を報道するメディアではこの熊野寮を指して「過激派」という言葉も使われていたが、京都大学全学自治会同学派の委員長によれば、「実態として、中核派の人もいるし、僕は路線を支持しています。だからって、寮の住人が皆、中核派じゃありません」とのこと。

この事件の顛末はさておき、60年代、70年代の「革命の季節」がはるか昔のことに思える現代においても、「暴力革命を否定しない」と真剣な眼差しで語り、新たに活動に参入してくる若者がいる。彼らはなぜそこに集まり続けるのだろうか。

今回、週刊SPA!はいわゆる過激派と呼ばれる党派の主義主張を取材するため、さまざまな党派にコンタクトを試みた。当初の想定以上に困難を極めた交渉の末、中核派の若者のインタビューに成功した。

■過激派・学生運動に身を投じた若者の本音

待ち合わせ場所に指定された、すき家の前から電話したら「すぐ行きます!」と牛丼をかき込んで出てきたのは、中核派全学連委員長の齋藤郁真君。「(立て看の)ゲバ字は書けないですね」と笑う好青年だ。でも、彼の語る言葉は「熱血」という言葉が似合う。

「革命は無血では行われません。労働者がストライキをやれば警察が介入し、暴力事件になることもあります。労働者が目標を貫徹するためには暴力のぶつかり合いは避けられません。だから暴力革命は必要なんです」

今回の衆院選でも中核派は候補者を擁立しているが、あくまで革命のための宣伝だと言い切る。「政権が左翼になっても、体制が変わらなければなにも変わりませんから」

では、革命まであと何年くらいかかるのかという問いには「私はあと2~3年で塗り替えてやろうという決意はあります」と情熱を見せる。そんな中核派が、革命へと至る運動のなかで重視しているのが、戦う労働組合の建設だ。

「すべては労働問題が軸になっています。戦争をやるにしても労働者が動かなければ生産も輸送もできません。だから、ストライキで戦争を止めよう。全世界の国際連帯で戦争を止めようというのが、私たちの主張です」

齋藤君は最後にこう結んだ。

「中核派は本気の党派ですから」

革命への情熱をひしと感じる、力強い言葉であった。





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「リベサヨ」とは何か――その定義、用法、問題意識をめぐって

はじめに

ネット上において、「リベサヨ」という言葉が散見される。では、これは一体どういう意味なのであろうか。

というわけで、「リベサヨ」を検索してみた。すると、原義は「ネオリベラリズム(新自由主義)的な左翼」のことのようだ。もっとも、最近では「リベラルな左翼」という意味で用いられることもあるらしい。



ネオリベラリズム(新自由主義)的な左翼?

では、「ネオリベラリズム(新自由主義)的な左翼」とはどういう意味か。そもそも「ネオリベラリズム(新自由主義)」とは、ジャーナリズム的に用いられるジャーゴンであり、定義が明確には定まっていないマジックワードであるが、一般的にその担い手は、歴史的経緯から言えばアメリカでは元・トロツキストが多く、つまり「自由主義に転向したマルクス主義者」とされる。

従って、リベサヨが「ネオリベラリズム(新自由主義)的な左翼」なのだとすれば、「自由主義に転向した左翼のような左翼」ということになるが、それはもはや「ネオリベラリズム(新自由主義)」そのものに過ぎないとも言える。



リベラルな左翼?

一方、「リベラルな左翼」とはどういう意味か。まず「リベラル」とは、経済活動への政府の介入を批判する「古典的自由主義」(近年では「リバタリアニズム」や「自由至上主義」とも言われる)に対抗する自由主義勢力のことである。つまり、福祉国家・大きな政府を目指すのが「リベラル」だと言える。次に「左翼」とは、社会主義や共産主義(的なもの)に親和性のある潮流であり、資本主義という経済システムや、自由民主主義に基づく市民社会を根本から批判する勢力のことである。そうした点で、あくまでも資本主義の改良・市民社会の完成を目指すリベラル勢力とは異なっている。

もっとも、リベラルも左翼も、現状の資本主義・市民社会を「変革」しようという点では一致しているし、リベラルは社会主義的な考え方に対して一定の理解を示す。そうした傾向をまとめて、「リベラルな左翼」と表しているのだろうか。もしそうであれば、単純に「リベラル」と「左翼」でいいような気もする。



自由主義を自由主義的に批判する左翼?

ここまで議論したものの、未だ「リベサヨ」の定義が判然としない。というわけで、ここで視点を変えて、「リベサヨ」という概念を用いた際に、その使用者が抱いているであろう問題意識からアプローチすることにしたい。

それで再度、「リベサヨ」で色々と検索してみた。すると、次のようなことが分かった。すなわち、「左翼とは本来、自由主義勢力(新自由主義も含む)に対抗する全体主義勢力であるはずなのに、一部の左翼(つまり、リベサヨのこと)は自由主義勢力を自由主義的に批判する勢力になってしまっている」というわけである。なるほど。それなら納得だ。「自由主義を自由主義的に批判した結果、泥沼に陥ってしまう」というような傾向には、以前から私も警戒していたし、従って「リベサヨ」という問題意識を共有したいと思う。というわけで、これまでの議論をまとめると以下のようになる。

 ・(オールド)左翼 = 反自由主義(全体主義)としての左翼
 ・リベサヨ = 自由主義的な左翼

もっとも、「自由主義的な左翼というのを果たして左翼と呼べるのか?」という疑問は残る。また「自由主義的な左翼」という定義は、字義的に「自由意志を尊重する左翼」つまり「アナキスト」ではないかという誤解を生んでしまう恐れもある。なので、リベサヨを「自由主義的な左翼」ではなく、「新自由主義的な左翼(のようなもの)」とした方がいいのかも知れない。

 ・(オールド)左翼 = 反自由主義(全体主義)としての左翼
 ・リベサヨ = 新自由主義的な左翼(のようなもの)

となると、驚きべきことに、議論が振り出しに戻ってしまうのである……。少なくとも言えるのは、無駄に議論が混乱してしまう恐れがあるので、「リベサヨ」を「リベラルな左翼」という意味で用いるのはやめた方がいいだろうということだ。なぜなら、既に議論したように、そもそも「リベラルな左翼」という概念は意味不明・定義不能だからである。



補遺

どうやら、「リベサヨとは穏健な左翼である」という言説もあるようだ。これはつまり、

 ・(オールド)左翼 = 過激な左翼
 ・リベサヨ = 穏健な左翼

というわけであろうが、そもそも穏健な左翼は「穏健な左翼」と呼べばいいのであって、わざわざ「リベサヨ」と言い換える意義はよく分からない。




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野間易通「在特会の登場はポストモダンの失敗例」

当該記事の筆者である吉岡命さんとインタビューを受けている野間易通さんの議論のズレは、それぞれが持つ「当事者性を放棄して両論を併記するべきだ」という日本的な公正・中立観と「自らの立場を明確にした上で言論を展開するべきだ」という欧米的な公正・中立観の違いに起因しているように思う。


●2014/9/4  【C.R.A.C野間易通インタビュー(前編)】反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通に直撃!――LITERA

カウンター活動は効果を発揮し、排外デモは中止になったりコースの変更を余儀なくされたりした。だが、一旦燃え広がった“怒り”の勢いは、しばしば排外デモ隊との物理的な衝突をも招くようになった。13年6月16日には、排外デモ側から4名、しばき隊から3名の逮捕者を出した。今や、その活動方針に疑念を抱く声は少なくない。実際に、彼らの活動に対して否定的な報道もなされている。

そのひとつが『ニューズウィーク日本版』(14年6月24日号/阪急コミュニケーションズ)に掲載された〈「反差別」という差別が暴走する〉という記事だ。過激な言動によって「怒りのマーケティング」を確立し、運動の動員力とする。差別的な言論を、暴力をもって押さえ込む。こうしたカウンターの手法は「憎悪の連鎖」を生むだけではないか。日本は独り善がりの「正義」と腕っ節ばかりが支配する息苦しい国になるのか。そう記事のなかで酷評された。これに対するコメントを求めると、意外にも野間は客観的な視点から語り始めた。

「これがもっとも世の中を反映している記事だと思うんです。だいたいの人がこのぐらいの印象でしょう。……自分が知的レベルが高いと思っている人ほど、こういう結論に至るんだろうな。俺は、この種の記事はもっと早くに出ると思っていたんだけれども、意外と遅かったね」

昨年、野間は朝日新聞のインタビューを受けている(13年8月10日朝刊)。デモ隊もしばき隊も「どっちもどっちだな」という印象を受けるし、デモに抗議するにしても他にやりようはないのか?という朝日記者の問いに対して、野間は、理路整然とした「上品な左派リベラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤロー」と叫ぶのが「正常な反応」だと主張している。
 
「結局ね、大マスコミもみんな素人なんですよ。今まで自分たちには関係のないことだと思っていたわけだから。『議論が必要だ』みたいな通り一遍のことしか言えない。……アホか? なんで『ヘイトやめろよ!』って言ってる俺らと、ヘイトやってるレイシストたちが『どっちもどっち』になるんだと。議論を重ねていけばよい、対話が必要だと彼らは言う。だったら言論機関である新聞がなぜそれをやらない?」

冷静に議論を深めよ――それは「メタ議論」であり、本質を置き去りにしている。そう野間は私見を述べる。朝日新聞のインタビューに応じるまで、野間は一切の取材を拒否していた。その後も“しばき隊と在特会の両意見を併記し公平に書く”とする方針の取材は断っているという。反ヘイトキャンペーンでないと協力しない、と。それは、自分たちに有利な報道のみを受け付けるという態度のようにも思える。

「反ヘイトに有利な報道しか認めないというのは、何が問題なんですか。民族的ヘイトも意見として尊重すべきだということ? 俺が言いたいのは、その“中立”は実際には中立ではない、ということ。マスコミが表現の自由が大事だと言うのならば、ヘイトスピーチはそれを侵害するという認識を持ってもらわないと、表現の自由を守ろうとしているとは認められない。ヘイトスピーチはマイノリティの自由権の侵害なんです。『ニューズウィーク』の記事を書いた社員編集者の深田政彦はね、俺たちが反原発運動をしていたときも、今回と同じようなしょうもない記事を書いたんですよ。それで、取材依頼に対してあんなくだらない記事だったら協力しない、反ヘイトの記事でないと受けないとメールを送ったら、『いやいや、反ヘイトの立場から書きます』って言ったから受けたんだけどさ。実際にはあれ、反・反ヘイトでしょう。彼は行動保守や在特会への批判はほとんどせず、それに対抗する側のあら探しをして、それもまた差別だと言っているわけですが、普通に考えて。先にきちっと断罪すべき“悪”があるでしょ? カウンターの批判は大いにやるべきだけど、ああいうバランスを欠いたものを見ると、彼の目的が反レイシズムでも反ヘイトでもないのは明らかでしょう。深田と『ニューズウィーク』はヘイトに加担したにすぎない」

しばき隊に対する批判的言説への反論は、マスコミ以外にも向けられる。一部の「左翼」勢力もまた、野間たちに対して「いちゃもんをつけてくる」という。いわく、「ポストモダン、ポストコロニアリズムの泥沼のなかで何が正しいのか分からなくなった人たち」。

「彼らはなんでも必要以上に相対的に見る癖がついている。『断罪している我々のほうにも問題があるのだ』みたいなことを言いたがる。ヘイトスピーチ規制法をどうするのか、ということに対するマスメディアや知識人の反応も近いものがある。ようは、何もしないことのエクスキューズでしょう。俺は朝日新聞に対して『自分たちのほうに正義がある』とはっきり言った。ヘイトスピーチ対カウンターというのは“正義と正義のぶつかり合い”ではない。この問題をそういうふうに捉える時点であなたたちは間違ってますよ。追及しているわけでもなんでもなく、たんに無難なコメントを出しているにすぎない」

見せかけの公平さを装うことは、たしかに「無難」かもしれない。だが、それが報道の精神ではないのか。

「いや、それは思考停止。判断をしていない。報道は公正であるべきで、“見せかけの公平さ”なんてものに意味はない。マイノリティを攻撃して差別し、排除しようとする在特会を叩くことこそが、社会的に見て“公正”であり公平さを重視した態度にきまっているでしょう。しかし彼らを叩くと、自分たちに攻撃の矛先が向く。それが面倒だからやらないだけでしょ。だから、一応公平に書きましたよ、みたいな形式をとる。これによってなにが起きるか。それは、議論の当事者になることの放棄です。マスコミは“議論すべきだ”と言うが、自身はその議論に参加ないわけ。そのうえに公正なジャッジすらできない」

野間はこれまでずっと、「冷笑主義者」の「どっちもどっち論者」と戦ってきたと語る。彼らは「自分をリベラルだと思って」おり、「正義と言っている側にもじつは不正義があるのだ」という話を好む。たしかに、思い当たる節がないわけではない。だがそれでも、ひとつの立場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らかだ。

「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要ですか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだって聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中にも不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができるわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みたいな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと普通に考えろよということです」

野間によれば、この「価値の相対化」こそが、在特会的なるものを生み出す背景になっているという。

在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポストモダンの失敗例なんです

「近代」という“大きな物語”が終わり、価値の相対化が生じるなかで、人々は個別に“小さな物語”を生きざるをえなくなった。それがポストモダニズムのひとつの前提である。たしかに、在特会など自称「行動する保守」の試みは、外交上の政治的失敗を経て「戦後」の価値観が揺れるなか、これまでの歴史の枠組みを破壊し、「市民」自らの手で再構築しようとするものなのかもしれない。





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価値判断を下すのに「色」を用いることの問題

高橋浩祐さんの「「ブラック企業」は、人種差別用語である」(2014/9/1)を読んだ。「ブラック=黒人差別」というのは日本の文脈からはやや離れているような気もするが、「黒や白といった色に何らかの価値を含ませるのは良くない」という問題提起は興味深く、広く知られるべきだと思う。

一方、同じ文章の中で「人種のるつぼ」という同化主義的な差別表現を用いていたり、今年7月には「集団的自衛権、黒幕の米国が考えていること」という黒人差別的なタイトルの文章を書いていたりと、その言動の一致してなさも目に付くが、完璧な人間などいないし、揚げ足取りはくだらないのでしない。




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ばたお

Author:ばたお
・1983年大阪府生まれ。大阪府河内長野市在住
・半自給農民、工場非常勤。できるだけ稼がず、できるだけ消費しません。シェアハウス運営
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