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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(9)最終回

十月革命

(1)

1917年10月22日。トロツキーの掌握する軍事革命委員会は、軍管区司令部に対してある要求を提示します。

トロツキー「今後、司令部からの命令書は、軍事革命委員会の連署がない限り無効にしてください」

司令部は「何をバカな!」と拒否。これを受けてスモーリヌイ(ボリシェヴィキの本拠地。元・貴族女学院)に連隊の士官らが集められ、トロツキーが演説しました。

トロツキー「委員会の命令を拒否した以上、司令部は反革命勢力の道具となりました。革命の防衛は唯一、軍事革命委員会の下にある皆さんの双肩にかかっています」

トロツキーは、軍隊にむやみに行動しないことを約束させました。これを皮切りに、ボリシェヴィキは行動を開始します。

トロツキー「蜂起の時が来ました。市内の重要拠点をすべて制圧します」
トムスキー「おー!」

赤衛隊は電信局、郵便局、橋、銀行などを制圧。軍需工場は軍事革命委員会の管理下に置かれます。

トムスキー「トロツキーさん、電信局が取り返されました」
トロツキー「別部隊を送ります。あと、スモーリヌイの守備強化を。ここを奪われたらおしまいです」

トロツキーは、現場の指揮官として蜂起を指導します。一方レーニンは、指名手配中のため市内に潜伏していました。

トロツキー「ペトロパブロフスク要塞も制圧しました。おまけでライフル10万丁も手に入りました。これで勝つる!」

クロンシュタットからは、巡洋艦オーロラが川を遡上。死者はほとんど出ないまま、市内はボリシェヴィキによって制圧されていきました。

ケレンスキー「知らない内にボリシェヴィキがあちこちにいる……。援軍が首都に来ない……」

援軍が来ないのは、ソヴィエトと軍事革命委員会に従っているためです。

ケレンスキー「どうしよう……。そうだ、アメリカに助けを求めよう」

ケレンスキーは、アメリカ大使館の助けを得てペトログラードを脱出しました。この時、女装していたとも言われています。そして25日、レーニンは声明を発表します。

レーニン「臨時政府は廃止されました。国家権力はソヴィエトと軍事革命委員会の手に移りました。革命ウラー。それでは『インターナショナル』の斉唱を!」
トロツキー「まだ冬宮では、臨時政府の閣僚が頑張っていますが」
レーニン「あら……」

レーニンの声明は先行して出されたのでした。ケレンスキーがいないとはいえ、臨時政府自体はまだ冬宮に存在していたからです。

レーニン「早くしないとソヴィエトの大会が始まってしまいます」
トロツキー「降伏勧告を出します。ソヴィエト大会は、開会を引き延ばしますので」

しかし、降伏はなされませんでした。守備をしているのは、1000人の士官学校生徒と300人のコサック兵、そして130人からなる女性大隊の兵士です。

トムスキー「攻撃しちゃえ。オーロラ、撃てー」

砲撃(ただし、空砲)の音に驚いた士官学校生徒は四散。コサック兵もやる気をなくして逃亡します。最後まで持ち場を離れなかったのは女性大隊でした(女性大隊が最後まで持ち場を離れなかったのは、赤衛隊に捕まったらレイプされると信じていたからという説がある。ただし、武装解除された彼女たちがレイプされたかどうかは定かではない。ちなみに、エレーヌ・カレール=ダンコースは「レイプが吹き荒れた」と述べている一方、H・E・ソールズベリーは「1件もなかった」としている。ジョン・リードによれば、「小委員会の調査の結果、3人がレイプされたとの証言が出た」。少なくとも、1人の自殺者が出たらしい)。結局、いくらもしない内に冬宮は陥落。閣僚は逮捕されました。



(2)

しかし実のところ、ボリシェヴィキにとっての真の問題は、冬宮陥落3時間前に始まった第2回全ロシア・ソヴィエト大会でした。これは、ジョン・リードが「喧噪と右往左往」と表現するほど混乱しました。

議事進行役のカーメネフ「静かにしてくださーい。大会を始めまーす」
マルトフ「滅茶苦茶です。内戦が始まってしまいます。危機は平和的に、統一民主政権で解決すべきです」
トロツキー「そんなのは不可能です」

マルトフの演説中に冬宮砲撃が始まります。代議員たちは動揺しました。

議事進行役のカーメネフ「議事を進行しまーす。席についてくださーい。あ……帰っちゃうの?」

臨時政府に閣僚を出していたメンシェヴィキ右派と社会革命党右派は、攻撃に腹を立てて退場します。

マルトフ「ボリシェヴィキはソヴィエトに隠れて勝手に蜂起しました。陰謀に手を貸すことはできません」
トロツキー「それがどうしたというのですか」

トロツキーはかつて両派の融和を唱えていたくせに、今やボリシェヴィキの重鎮です。

トロツキー「手に入った勝利を手放すことは愚か者がやることです。あなたたちは実に中途半端で惨めです。もはや役割を終えました。歴史の掃き溜めへ行け!」
マルトフ「ひ、ひどいですぅ~」

マルトフらメンシェヴィキ左派も、トロツキーの演説に憤慨して退場します。結局、残ったのはボリシェヴィキと、ボリシェヴィキに同調する社会革命党左派(カリスマ女性革命家・スピリドーノヴァ率いるテロ集団。その尖り具合はボリシェヴィキを超えることも。後の左翼社会革命党)だけです。これはボリシェヴィキの思う壺でした。かくして大会はボリシェヴィキ主導で進み、レーニンは布告を発します(「平和に関する布告」「土地に関する布告」)。

レーニン「全交戦国の戦争行為の即時停止。無併合・無賠償です。あと、民族も自決しましょう。それと、地主の土地は取り上げてソヴィエトの管理にします。すべての労働者は勝利したのです。革命ウラー」

そして、今度こそ「インターナショナル」が斉唱されます。こうしてボリシェヴィキは勝利したのでした。



(3)

では、どうしてボリシェヴィキは勝利できたのでしょうか。プロパガンダも含めて様々な説明がありますが、ここでは当時外交官としてロシアに赴任していた芦田均の説を紹介します。「戦争の結果疲労困憊した人心を掴むには、ボリシェヴィキの掲げた政策が最も効果的であったことは疑いのない事実である」。

さて、この「十月革命」は民衆蜂起ではなく、あくまで一組織によるものでした。市民生活も普通に行われていたことから、「革命ではなくクーデター」と評価する歴史家も多くいます(少数意見として、例えばスラヴォイ・ジジェクは、「メイエルホリドなども参加した『冬宮急襲』といったパフォーマンスこそ、『十月革命』が単なるボリシェヴィキという1つの小集団によるクーデターではなく、非常に解放的な潜勢力を解き放った出来事であったことを示している」とし、「十月革命=クーデター説」を否定している)。また、これは都市部のみで行われたものでした。よって、地方の農民層は社会革命党の支持基盤のままです。そしてこのことは、後に大きな問題となっていきます……。



※サブタイトル一覧
  第1回  『イスクラ』の発行
  第2回  第一革命
  第3回  ボリシェヴィキとメンシェヴィキの決裂
  第4回  第一次世界大戦の勃発
  第5回  二月革命
  第6回  四月テーゼ
  第7回  七月蜂起とコルニーロフ事件
  第8回  軍事革命委員会の設立
  第9回  十月革命(最終回)



(おわり)





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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(8)

軍事革命委員会の設立

(1)

さらなる革命に向かうボリシェヴィキですが、フィンランドに逃亡したレーニンとペトログラードの党中央委員会には、微妙な温度差がありました。この頃のボリシェヴィキは、全政党民主協議会に参加するかどうかを検討していました。これは、憲法制定議会選挙を行うまでの繫ぎ国会のような組織です。ややこしい話ですが、憲法制定議会できちんとした手続きを踏まなければ、ちゃんとした政府にはならないからです(つまり、「正統性:手続き上の正しさ」の問題。革命政府には、「正当性:内容的な正しさ」はあるものの、「正統性:手続き上の正しさ」がないということ)。ケレンスキーの政府が“臨時”なのは、そのためです。ともかく「国会がないと困るから、皆で集まろう」というものでした。レーニンはこれに反発し、党中央委員会に手紙を送ります。

カーメネフ「えーと、レーニンさんから『ボイコットしましょう。それより蜂起しましょう』って手紙が届きました」
ルイコフ「私は参加してもいいと思いまーす。ボリシェヴィキは多数派になってるんだから、合法手段で十分です」
カーメネフ「私もそう思う。レーニンさんは過激すぎ」
トロツキー「私はボイコットでいいと思う。力で奪取できる条件は整えられているし、もうボリシェヴィキには誰も逆らえない」
カーメネフ「スターリンは?」
スターリン「……。ボイコットでいいんじゃない」
カーメネフ「えー」

この頃のスターリンは、あまり立場を鮮明にしていませんでした。ともあれ、この手紙は超法規的措置として「見なかったこと」となり、会議には参加することになります(しかし、途中退席)。

ジノヴィエフ「党はレーニンさんの意見に反対したみたいですね」
レーニン「まあ、なんてこと。ぼやぼやしてられません」

業を煮やしたレーニンは帰還を決意。ジノヴィエフと共にペトログラードに戻ります。



(2)

さて1917年10月9日(12日、16日という説もある)、ペトログラード・ソヴィエトは軍事革命委員会を設立しました。トロツキーはこれを、ボリシェヴィキの隠れ蓑として利用しようとします。

トロツキー「赤衛隊(武装した労働者による民兵組織)とクロンシュタットの水兵たちをここに集結させます。ソヴィエトの名の下に動かせるのは、何かと都合がいいのです」

そして10月10日、戻ってきたレーニンによって党中央委員会が招集されます。席上、レーニンは10月25日に予定されている全ロシア・ソヴィエト大会よりも先に蜂起することを提案します。

レーニン「まず武装蜂起です。ソヴィエト大会を待っていたら、メンシェヴィキや社会革命党につけ込まれます」
トロツキー「時期はともかく、蜂起には賛成ですね」
ルイコフ「本当にやるの?」
スターリン「……(微妙な表情)」
カーメネフ「私はソヴィエト大会参加でいいと思うよー。蜂起しても、軍隊がちゃんと味方になってくれるか分かんないから」
レーニン「大会でもし少数派になったらどうするんですか。蜂起です。蜂起、蜂起、蜂起、そして蜂起!」

レーニンは熱弁を振るって中央委員たちを説得していきます。正確なやりとりは不明なのですが、最終的には2人を除いて説得に成功しました。

カーメネフ「私は反対」
ジノヴィエフ「私も反対です」
カーメネフ「え、ジっちゃんも?」
ジノヴィエフ「合法手段で政権が取れるなら、それで十分です」
カーメネフ「でも……みんな賛成しちゃったよ」
ジノヴィエフ「意見だけでも表明しておきましょう」
カーメネフ「じゃあ、新聞に『蜂起反対』って載せちゃおう」

性急な武装蜂起に反対したカーメネフとジノヴィエフの2人は、なんと『ノーヴァイヤ・ジーズニ』に「ボリシェヴィキによる蜂起は革命に破滅をもたらす」との署名原稿を載せました。蜂起計画を新聞に暴露したのです。おかけで、メンシェヴィキから追及されることになりました。

マルトフ「武装蜂起は本当にするんですか? するなら、それはいつなんですか?」
トロツキー「決まっていたり、いなかったりです。いろいろと」

もちろん、レーニンはこのことに激怒しました。

レーニン「なんということでしょう。カーメネフさんだけではなく、ジノヴィエフさんまで反対するなんて。2人は党から除名です」

さすがに除名は他の中央委員が取り上げませんでしたが、それでもレーニンは2人を「スト破り」と罵ることを止めませんでした。

余談ですが、この「裏切り」行為によってレーニンの副官とまで呼ばれたジノヴィエフは、それまであったレーニンとの家族ぐるみの関係もなくなることになります。レーニンは、「自分の意見を聞くか聞かないか」で人を判断する人物だったからです。またこの事件は、19年後に2人がスターリンに粛清される原因の1つともなります(「第1回モスクワ裁判」「16人裁判」)。

カーメネフ「怒られた……」
ジノヴィエフ「『プラウダ』に原稿を書いてなだめましょう。私たちとレーニンさんの意見の違いは、ほんの少ししかない……と」
スターリン「問題は解決済み……と、注釈も加えておきましょう」
トロツキー「いや、それはよくない」
スターリン「え?」
トロツキー「余計な注釈を加えないで。意見の相違があるのも事実でしょう」
スターリン「……(融通の利かない奴)」

実のところ、ボリシェヴィキの内側はなかなか安定しませんでした。カーメネフをはじめとする右派との間に相違があったのです。ちなみにH・E・ソールズベリーは、「およそ権力奪取を図る一団が、こんなにバラバラなのはそう滅多にお目にかかれない」と評しています。もっともこれは、派閥が3つも4つも存在したメンシェヴィキ(左派から右派の順で、新生活派、国際派、革命的祖国防衛派、祖国防衛派。マルトフは国際派)や社会革命党(左派、中央派左派、中央派右派、右派。ケレンスキーは右派)に比べれば、マシではありましたが。



(3)

では、ペトログラード中の新聞が「ボリシェヴィキの蜂起はいつだ?」と書き立てる中、臨時政府は一体何をしていたのでしょうか。

ケレンスキー「レーニンなんて放っておけ。そんなことより、ドイツ軍が来るよー」

9月には、ドイツ東部軍が北部で攻勢に出てリガが陥落します。先述の軍事革命委員会は、本来ドイツ軍の攻撃から首都を守る組織です。ケレンスキーは、レーニンを過小評価していたと言われています。ともあれ、ボリシェヴィキはトラブルを抱えつつも蜂起の準備を行っていました。そして、その日が来るのです。


(つづく)




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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(7)

七月蜂起とコルニーロフ事件

(1)

ロシアに樹立された臨時政府ですが、まったく安定せず、2ヵ月ごとに政変が起こり、首相や閣僚が選ばれては辞任していました。

ケレンスキー「……うーん。これはソヴィエトの支持も得ないとまずい。ソヴィエトからもっと入閣してもらおう」

ケレンスキーは、ソヴィエトからさらなる閣僚を迎えることによって政権の安定を図ります。無論、反対意見も出ました。

マルトフ「臨時政府に協力したら、戦争が続くだけです」

この時に力を持っていたのはメンシェヴィキと社会革命党で、ソヴィエト内でも大きな発言力を持っていました。しかしソヴィエトは会議の結果、この入閣を了承します。メンシェヴィキは組織の縛りが緩いため、マルトフ(メンシェヴィキ左派)の主張もしばしば覆りました。

ケレンスキー「……なんとか政府ができた。後は、私が陸軍大臣と海軍大臣も兼ねるだけ」

こうして、ケレンスキーの権力はどんどん増していきました。

ちなみに、この頃のボリシェヴィキですが、異様に元気でした。というか、レーニンが元気でした。1917年6月に行われたソヴィエト大会でも、こう発言しています。

レーニン「どの政党にも権力を拒絶する権利はありません。我が党は、いつでも権力を取ります。ボリシェヴィキには落ち込んだ経済を立て直す計画があります。ロシア中の金持ち上位100人を逮捕して、財産を没収すればいいんです」

大会を押さえているのはメンシェヴィキと社会革命党で、ボリシェヴィキは代議員1090人中105人に過ぎなかったのですが、権力を取ると言い切ったのです。

レーニン「要は人を増やせばいいんです」

数の少なさを自覚していたレーニンは、党勢拡大を行います。結果、クロンシュタット軍港の水兵たちがボリシェヴィキを支持し、以後忠実な手足となります。



(2)

さて、臨時政府はというと、連合国の手前もあって攻撃計画を立案します。そして、ロシア軍は南部で攻撃をかけます(「ケレンスキー攻勢」)。しかし、相手はドイツ軍。東部軍ホフマン参謀長の反攻作戦で、ロシア軍は瓦解します。こうした臨時政府の失政に、民衆は絶望。不満が蓄積し、7月になるとデモが発生します。

レーニン「絶好のタイミングです」
ジノヴィエフ「ついにやるんですね」
レーニン「デモに乗じます。武装蜂起です」
トムスキー「やるやるー。臨時政府倒すー」
スターリン「……(まあ、従っておくか)」

これは、アナーキストが起こした騒乱でした。そこをボリシェヴィキがアジり、さらに騒ぎを拡大しようとしたのです(「七月蜂起」)。

レーニン「見てください。武装デモ隊が『資本家打倒』『すべての権力をソヴィエトへ』と叫んでいます。クロンシュタットからは水兵たちもやってきます」
トロツキー「レーニンさん、デモ隊が農業大臣を監禁してしまいました」
レーニン「あらら……、それはちょっと早過ぎますね」
トロツキー「私が説得してきます」

トロツキーは、ケレンスキーと並ぶ演説の名手です。おかげで農業大臣は解放されましたが、臨時政府は激昂しました。臨時政府は歩兵連隊を投入し、デモの鎮圧を図ります。結果、この蜂起は失敗に終わり、ボリシェヴィキの主要幹部には逮捕状が出ました。レーニンは、ジノヴィエフと共にフィンランドへ逃亡。しかし、何人かは逮捕されます。

カーメネフ「逃げ遅れてしもた……Orz」
トロツキー「あら、カーメネフも?」
カーメネフ「トロツキーさんも? もうシベリアやだー。あそこ退屈ー」
トロツキー「大丈夫。今の政府はぬるい」

当初は銃殺されるのではという噂も流れましたが、中途半端に監禁されるだけでした。政府も、ソヴィエトの人間にはあまり強く出られなかったのです。



(3)

「七月蜂起」の後、ケレンスキーは首相兼陸相兼海相に就任します。頂点には立ちましたが、課題は山積みです。

ケレンスキー「とりあえず、皇帝をなんとかしておかないと。ちょっと移動してもらえる?」
ニコライ2世「場所は?」
ケレンスキー「シベリア☆」
ニコライ2世「ええーー」

ケレンスキーは右派と左派の両方から守るために、皇帝をシベリアの片田舎に移送します。田舎の方が身の危険が少ない、と判断したためです。移動のための列車には、偽装のため日の丸と日本赤十字社の布が貼られたそうです。

ケレンスキーにはまだまだ試練が訪れます。次はコサック出身のコルニーロフ将軍が、ソヴィエトの解体を狙って首都への進撃を始めました。コルニーロフは軍の最高司令官で、臨時政府に反抗するつもりはなかったようなのですが、ケレンスキーは過剰反応してしまいます(「コルニーロフ事件」)。

ケレンスキー「また反逆者が出たッ。私は捕まって銃殺されたくない。ソヴィエトに力を借りよう」

ソヴィエトが集めた部隊はコルニーロフ軍を撃破します。この事件は臨時政府の内輪揉めに近く、ボリシェヴィキにとって好機でした。ソヴィエトは「七月蜂起」の逮捕者を釈放するよう要求。ソヴィエトに借りのある臨時政府は、これに応じます。

カーメネフ「わーい。釈放ー」
トロツキー「労働者に武器も配ったし、民衆は既存権力に失望しています。今こそボリシェヴィキの出番です」

トロツキーは慧眼でした。ここに来てボリシェヴィキの揺るぎないテーゼは、疲れ果てた民衆の心を急速に掴み始めます。

トロツキー「民衆は臨時政府の中途半端さに飽き飽きしています! 半端で日和見なケレンスキーこそ断罪すべきです! すべての権力をソヴィエトへ!」

9月に開催されたペトログラード・ソヴィエトの大会では、立憲民主党の排除などを盛り込んだボリシェヴィキ案が大差で可決。議長にトロツキーが就任します。さらに、モスクワ地方議会選挙においてもボリシェヴィキが躍進します。第一党こそ社会革命党ですが、ボリシェヴィキは軍隊票の9割を得たのです。これは非常に大きな利点でした。フィンランドにいたレーニンは、これらのことに力を得ました。

レーニン「今度こそチャンス到来です」
ジノヴィエフ「今度はうまくいくでしょうか」
レーニン「権力は目の前にあります。ボリシェヴィキで政権を取ります。何が何でもやるのです!」


(つづく)




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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(6)

四月テーゼ

(1)

さて、臨時委員会は臨時政府となって権力を掌握します。そして、ペトログラードのソヴィエトはこれを承認します。……これは一体どういうことでしょうか。すなわち、革命は成功したものの、権力構造が歪なものになってしまったのです。

ケレンスキー「臨時政府にソヴィエト……。権力が二重構造なんだよねぇ。臨時政府は外交と財政を掌握してるけど、ソヴィエトは軍を掌握してる。うーん……でも、私にすべてお任せ!」

臨時政府の法務大臣だったケレンスキーは、ソヴィエト執行委員会の副委員長でもありました。兼務することによって、どちらも掌握する腹づもりだったのです。

ケレンスキー「あ。そういえば第一次世界大戦の最中だった。忘れてた。今ここで戦争を止めたら、私の評判はガタ落ちしてしまう。兵士は戦争したがらないけど、いいよね!」

臨時政府は連合諸国に戦争継続を約束しました。革命前の約束を守ることによって、他国の支持を取り付けるためです。このため、英仏日米などが臨時政府を承認します。しかし、これはソヴィエト左派の反感を買うことになりました。

マルトフ「うう……。戦争を止めるために革命をしたはずなのに、ひどいですぅ……」

臨時政府は、8時間労働制、ポーランドの独立、ウクライナ・フィンランドの自治、政治犯の釈放などを謳いました。

スターリン「これで帰還できる」
カーメネフ「もう釣りはしないの?」

シベリア流刑中、魚釣りや兎刈りばかりしていたそうです。

スターリン「散々釣ったし、もうペトログラードに帰る」

スターリンは、カーメネフらと共にペトログラードに帰還。たちまちボリシェヴィキ中央委員会ロシア書記局と『プラウダ』編集部を手中に収めます。一方、この段階ではまだ国外のレーニンですが、ボリシェヴィキ以外の勢力によって革命が成功したことに大きな衝撃を受けていました。

レーニン「早く革命に参加しませんと、出遅れてしまいます。ボリシェヴィキによる理想の共産主義が遠のいてしまいます。とりあえずやることは……、臨時政府を打倒しましょう。臨時政府はプチブル政府であり、プロレタリアを代表していない……と。これを『プラウダ』に載せましょう」

当時の『プラウダ』の発行部数は10万部。ペトログラードで印刷されていました。

カーメネフ「ねえねえスターリン。レーニンから書簡が届いたよー」
スターリン「見せて。……没」
カーメネフ「えー!?」
スターリン「こんなものを全部載せたら、こっちの身が危ない。臨時政府のところと固有名詞はカットして載せましょう」
カーメネフ「まだ来るけど」
スターリン「そっちは全没」

レーニンの書簡は載りませんでした。当時のスターリンは「臨時政府が革命の前進を保証する限りにおいて支持する」としており、むしろメンシェヴィキ右派の考えに近かったのです。

スターリン「現実は厳しいのだ」
カーメネフ「禿同。ドイツ軍が攻撃してるんだから、戦わないと」

当然ですがレーニンは焦り、帰国の念を強くしました。

レーニン「早く帰りませんと。こうなったら誰とでも手を組みます」



(2)

ツァーリの政府が倒れたのに戦争が継続されているため、ドイツも焦っていました。そこでドイツ政府は、レーニンに資金を与え、「封印列車」に乗せます。そして1917年4月、レーニンはジノヴィエフらと共にロシアに帰国します。しかし、レーニンの主張はボリシェヴィキの中でも過激でした。それにペトログラードは革命の熱気に包まれていたこともあり、ほとんど注目されませんでした。

スターリン「そもそも私が親臨時政府なので」

レーニンの帰還に前後して、各地に散らばっていた革命家たちも続々とペトログラードに集結してきます。

マルトフ「私も帰ってきました」
ルイコフ「ボリシェヴィキに復党しまーす」

そして5月には、あの人も帰ってきます。

ジノヴィエフ「レーニンさん、トロツキーが帰国するみたいです。どうしましょう」
レーニン「……。会いましょうか」
トロツキー「帰ってきました」
ジノヴィエフ「お帰りなさい」
レーニン「……」
トロツキー「レーニンさん、私をボリシェヴィキに入れてください」
レーニン「え……本当ですか?」
トロツキー「はい。私はボリシェヴィキと共に活動します。革命はボリシェヴィキの手で成されると悟りました」
レーニン「そこまで評価してくれるなんて、ありがどうございます。今まで言ってたことを許してくださいね」

実のところレーニンもトロツキーを必要としており、何度か勧誘をしていました。トロツキーが加入したのは7月ですが、ともかくこれで革命の両輪は揃ったのです。レーニンは革命の成果をボリシェヴィキに結集させるべく、「四月テーゼ」を発表します。

レーニン「ブルジョワ革命を社会主義革命に転化しなければなりません。土地はソヴィエトが没収します。軍もソヴィエトのものです。すべての権力をソヴィエトへ!」
スターリン「……」
カーメネフ「……」
ルイコフ「……」
レーニン「あら、ノリが悪いですね」
ジノヴィエフ「ちょっと、レーニンさんの言うことを聞きなさいよ」
スターリン「それ、あんまり評判良くないんだけど」
カーメネフ「ソヴィエトは臨時政府を監視していればいいと思う」
ルイコフ「革命は私たちが起こしたものじゃありませーん」
レーニン「皆さん、もっと革命家らしくなれないんですか? 不屈の闘志で革命は継続させます。この論文は『プラウダ』に載せますから」
カーメネフ「じゃあ、『責任はレーニンにある』って付け加えておくよ」

当初、「四月テーゼ」にはボリシェヴィキ内でも否定的な意見が多くありました。例えば、古参ボリシェヴィキのボグダーノフは「狂人のうわごと」と表現しています。ただ、「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンは大変分かりやすいものでした。

カーメネフ「ねえねえスターリン。レーニンさんの意見には、やっぱり反対だよね」
スターリン「まあね。ところで、党員の反応はどう?」
カーメネフ「びみょー。スローガンは気に入ったみたいだけど」
スターリン「……(念のため、レーニンも支持しておくか)」


(つづく)




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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(5)

二月革命

(1)

1916年10月・オフラナ秘密報告
「かつて見られない激しい不満。政府に対する憤激。強大な騒乱の予兆。これに比べれば、1905年の危機など児戯に等しいものである」「国家は革命の瀬戸際にある」

1917年2月23日のペトログラード。この日の朝から主婦たちは通りに出て、まばらながらあちこちに集まり始めます。それらはしばらくすると大きな集団となり、口々に「パンを寄こせ!」とシュプレヒコールをあげていきました。この日は国際女性デーでした。不足する食糧に耐えかねた女性たちが抗議したのです。するとこれに呼応するかのように、24日になってあちこちでデモが起こります。デモ隊は「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら商店を襲撃しました。注目すべきは、これらの騒乱は革命勢力の手引きではなかったことです。自然発生でした。それだけ不満が溜まっていたのです。

ニコライ2世は鎮圧を厳命します。ですが、今度は以前とは違いました。デモ隊に発砲した部隊は一部に過ぎず、大半は命令を拒否したのです。皇帝に忠誠を誓ったはずの兵士の反乱に、誰もが「これは革命である」と直感しました。そして機を見るに敏なこの人たちも、即座に状勢を把握するのです。

ケレンスキー「政府はもうダメぽ。右派議員も役に立たない。よし、臨時委員会を作ろう☆」

2月27日。ケレンスキーらが音頭を取って、国会の中から右派を除く各派が臨時委員会に結集します。秩序を回復させるための組織でした。

ケレンスキー「これで皇帝と直談判して……。あ、ソヴィエトも作るの?」
マルトフ「私たちの出番です。今こそ、労働者のための組織を前面に出すときが来ました」

同日、メンシェヴィキと社会革命党が主導して、ペトログラードに「ペトログラード労働者・兵士ソヴィエト」が作られます。ただし、マルトフはまだ国外にいました。

レーニン「あの……ボリシェヴィキは?」

ボリシェヴィキは、ソヴィエトにわずか数名を派遣しただけでした。オフラナの浸透戦術によって、国内の地下組織は壊滅寸前だったからです。



(2)

ボリシェヴィキはともかく、この騒乱は止むことなく、秩序は崩壊していきました。本来なら鎮圧する側が、騒ぐ側にいるからです。兵士は続々とソヴィエトに忠誠を誓います。クロンシュタットでは水兵が反乱を起こして士官を殺害、海軍も革命側につきます。民衆の憎しみは政府に向いていたため、すべての閣僚は逃亡して消え去りました。となると、残るは皇帝だけです。

ケレンスキー「暴動で裁判所まで燃えちゃった。まぁ、暖かくなっていいけど。兵隊も警察も逃げ出しちゃったし、もう皇帝には退位してもらうしかないね☆」
ニコライ2世「そんなぁ……」
ケレンスキー「陛下。民衆は陛下とドイツ女(皇后のこと)を嫌ってるよ。辞めた方がいいと思う。辞めても亡命すれば済むから。明日からイギリス人だよ」
ニコライ2世「むむむ……」

ケレンスキーは、皇帝をイギリスに亡命させるつもりでいました。そして3月2日、ニコライ2世は退位に同意します。実際には、譲位を迫ったのは国会議員のグチコフで、臨時委員会の委員長はロジェンコでしたが、それはそれ(汗)。皇帝位は病弱な息子アレクセイではなく、弟ミハイルに回ります。ですが危機感を覚えていたミハイルは、譲位を拒絶しました。この瞬間、300年の歴史を持ち、ナポレオンの大陸軍すら撃退したロマノフ朝は消え去ったのです。

ニコライ2世「そして私は軟禁される」

これら一連の動きを「二月革命」(ないしは「第二革命」)と言います。本当にあっという間の出来事でした。「二月革命」による直接の死者は数百名。これが多いか少ないかは、意見の分かれるところでしょう。

レーニン「ですから、ボリシェヴィキは……」

何かしてましたっけ?

トムスキー「いろいろ頑張ったよ。ビラだって撒いたし」

そうでした。メンシェヴィキや社会革命党に比べて小さなものでしたが、確かに活動しています。

トムスキー「ボリシェヴィキのビラで人民が怒って、ツァーリを倒したんだって!」
レーニン「すなわち、ボリシェヴィキと人民の勝利です」

これが、後のソ連共産党の公式見解となります……。


(つづく)




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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(4)

第一次世界大戦の勃発

(1)

「第一革命」後、ロシア国内の革命勢力は一時的な低調を迎えます。当時首相だったストルイピンが徹底的な弾圧を行ったためです。ストルイピンは軍事法廷を開設し、社会主義者を片っ端から絞首台に送りました。あまりに激しいので、「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれるようになったほどです。ロシアン・ジョークに容赦はありません。

1911年にストルイピンが暗殺されて、ようやく革命勢力は息を吹き返します。彼らはあるときは合法に、あるときは非合法に勢力を伸張させます。1912年にロシア国内で起こったストライキは2032件、参加した労働者は72万5492人にのぼりますが、それらには何らかの形で革命勢力がかかわっていました。そしてこの年の第4次国会選挙では、合法闘争として革命勢力も参加します。

レーニン「ボイコットはしません。国会に代議士を送り込みます」

選挙の結果、ロシア社会民主労働党は13人を送り込み、ボリシェヴィキはその内の6人を占めました(残りはメンシェヴィキと中立派)。

レーニン「これでまた一歩、共産主義に近づきましたね」
ジノヴィエフ「そういえば、社会革命党の議員の中にすごく演説のうまい人がいますよ」
ケレンスキー「演説と弁護活動は任せて! 革命勢力はどんどん弁護するよ」

レーニンと同郷の弁護士・ケレンスキーは、若さと熱意で民衆・革命勢力の側に立ち、世間の信頼を勝ち得ていきます。とりわけ、専制弾劾演説には激しいものがありました。

ケレンスキー「皇帝はロシアの暗夜を貫く閃光を見る! 革命の遠雷を聞く! 皇帝政府を倒せばロシアを滅亡から救えるのだ!」
ニコライ2世「ちょ、ケレンスキー君は過激すぎ。皇后が『あの男を絞首台に送れ』と言ってるぞ」
ケレンスキー「皇后はラスプーチンと付き合うのをやめてから言えよ!」
ニコライ2世「……否定できないのが辛い」

喋りのうまい人は人気が出ます。ケレンスキーに寄せる民衆の期待には大きなものがありました。



(2)

さて、第4回国会内でのロシア社会民主労働党ですが、対外的にはまだ1つです。しかし、内実は分裂したも同然でした。そして1913年の夏、激しくなった対立はついに議会内での団体活動を休止させます。以後、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは独自に行動するようになりました。

マルトフ「分かり切っていました」
レーニン「当然です」

ボリシェヴィキ議員団の団長にはマリノフスキーが就任。過激に過激を上塗りしたような人物で、口を極めてメンシェヴィキを罵ります。

マルトフ「あの人、なんであんなに口が悪いんですか……。もしや……」

マルトフの懸念を裏付けるかのように、当局のボリシェヴィキへの摘発が厳しくなっていきます。まず、レーニンの密書を運んでいた女性が逮捕。中央委員のスヴェルドルフも逮捕されます。そして、スターリンまで当局の手にかかってしまうのです。

スターリン「……まあ、いずれ脱走すればいいんだけど」

いずれもマリノフスキーが近くにいた時に起こった事件でした。ボリシェヴィキ内では、ブハーリンが最もマリノフスキーを非難していました。そして、ボリシェヴィキどころかメンシェヴィキからも疑念の声が上がります。

マルトフ「マリノフスキーはオフラナのスパイですぅ~」
レーニン「そんなはずありません。私はマリノフスキーさんを信頼しています」
ジノヴィエフ「私もです」
レーニン「ジノヴィエフさん、『プラウダ』に反撃コミュニケを載せてください」
ジノヴィエフ「合点承知之助!」

『プラウダ』には「調査の結果、マリノフスキーの潔白は証明された」との報告書が載り、レーニンが署名します。ですが、非難の声は収まりません。すると1914年5月、マリノフスキーは「お別れだ!」とロシア語で叫んで辞表を提出。国会議員のくせにさっさと国外へ行ってしまいました。なんと、マリノフスキーは本当にオフラナのスパイだったのです。今も昔もロシア人は浸透工作を得意としており、当時は二重スパイ、三重スパイが当たり前の状況でした。他では、社会革命党戦闘団のリーダー・アゼフもオフラナのスパイでした。ちなみにアゼフは、モスクワ総督の暗殺を指令しています。さらに、『プラウダ』の主筆・チェルノマゾフもオフラナのスパイでした。これらの材料を得たメンシェヴィキは、ボリシェヴィキを激しく攻撃します。

マルトフ「こんな組織に革命は託せません。ボリシェヴィキは解散すべきです。メンシェヴィキがすべてを指導します!」

ここに至っても、レーニンは妻のクルプスカヤと共にマリノフスキーを弁護しています。当然のことながら、立場は悪くなる一方でした。ますます攻撃の手を強めるメンシェヴィキでしたが、そんなことを吹き飛ばす事件がサラエボで発生します。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺されたのです。この事件は瞬く間にヨーロッパを戦乱の渦に叩き込み、第一次世界大戦が勃発します。ニコライ2世はドイツの挑戦を受けて立ちます。ドイツ風の首都サンクトペテルブルクをペトログラードと改称し、ロシア軍は西へ西へと進撃します。ボリシェヴィキに限りませんが、戦争のためそれまでの問題はうやむやに、あるいは小さくなって省みられなくなりました。

レーニン「ほっ」



(3)

社会主義者たちの大方は戦争に反対でした。しかし実際には、戦争が始まるやいなや自国を熱烈に支持し、他国を糾弾していきます。戦争に対するロシアの革命政党の態度は、大雑把にいって「戦争継続」「戦争反対」の2つに分かれていました。社会革命党やメンシェヴィキも党内で論争を繰り返しています。

ケレンスキー「私は、戦争継続を消極的に望む『革命的祖国防衛派』!」
マルトフ「私は、無併合・無賠償の即時講和を望む『国際派』です」

これらに対して、ボリシェヴィキは違っていました。

レーニン「カーメネフさん。ロシアに戻って、ボリシェヴィキ議員団を指導してください」
カーメネフ「いいよー」
レーニン「そこで戦争反対とロシアの敗北を願う宣言をしちゃってください」
カーメネフ「え? そうなの?」
レーニン「いいんです。その方がロシア国内が混乱しますから。やっちゃってください」
カーメネフ「分かったよ。みんな聞いてー。ロシアは負けた方がいいってレーニンが……。……ひゃあああっ!?」

このような「革命的祖国敗北主義」を唱えた結果、ボリシェヴィキ議員団は全員逮捕。シベリア送りとなりました。

カーメネフ「くすん……何もなくて寂しいよう」
スターリン「あら、カーメネフ」
カーメネフ「あ、スターリン」
スターリン「流刑になったのね」
カーメネフ「ここ、つまんないYO」
スターリン「まあ、流刑囚同士仲良くしましょう」
カーメネフ「うん。わーい、友達友達」
スターリン「ふっふっふ……」

スターリンとカーメネフの交歓は、後に大きな意味を持ってきます。

少し脱線しましたが、つまりレーニンは「自国政府の敗北・対外戦争を内乱へ転化」して革命を成就させようと目論んでいました。ヨーロッパ広しといえど、このような主張は滅多にありません。即時講和を主張するマルトフですら反対しました。しかし、レーニンの主張に目を向けた国もあります。ドイツです。東西で戦っていたドイツは、ロシア国内が弱体化することならどんなことでもしていました。そこでドイツ政府は、レーニンの帰国をサポートするための列車を仕立て(「封印列車」)、旅費も提供するのでした。


(つづく)




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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(3)

ボリシェヴィキとメンシェヴィキの決裂

(1)

1907年4月・ロンドン
レーニン「重要な大会です。ジノヴィエフさん、ルイコフさん、カーメネフさん、トムスキーさん、ボリシェヴィキのために頑張りましょう」
ジノヴィエフ「勢力拡大のまたとない機会。全力を尽くします」
マルトフ「ま、負けられない」
レーニン「マルトフさんも来たんですね……あら。もしかして、トロツキーさん?」
トロツキー「シベリアから脱走してきました。革命のためなら何でもします」

ロシア社会民主労働党の第5回大会が開催されました。この大会は党のみならず、ヨーロッパ中から社会主義者が集まっていました。中には、ローザ・ルクセンブルクもいます。ここでボリシェヴィキとメンシェヴィキは激しい論戦を展開、会場の外でも掴み合いになるまで争っていました。

マルトフ「ボリシェヴィキは卑怯ですぅ~。汚い言葉と権威主義的中央集権で押し切ろうとしています」
レーニン「何を言うのですか。運動の純粋性を否定するのは、偽善的であり改良主義的です」
マルトフ「党中央にレーニンさんの手下だけを送り込もうとしていますぅ~」
レーニン「有能な人材を推薦しているだけです」
トロツキー「皆さん、ここは和解が必要です。すべての社会主義者は同一の革命へ進まないと……」
レーニンとマルトフ「トロツキーは黙ってて!」
トロツキー「……」
レーニン「中央委員ですが、ジノヴィエフさんが加わりますから」
マルトフ「……」
トロツキー「……」
ジノヴィエフ「全力でやらせていただきます」
レーニン「ふふふ……」

ストックホルムで統一したはずのロシア社会民主労働党でしたが、内部の対立は収まっていないどころか、むしろ激化していました。トロツキーは融和に力を注ぎますが、誰も聞く耳を持ちません。結局、ポーランドとリトアニア代表の支持を受けたボリシェヴィキが多数派となり、ブントのみの支持だったメンシェヴィキは少数派となります。

レーニン「主導権を取り戻しました~」
マルトフ「うう……」



(2)

その頃のロシア宮廷はというと、怪僧ラスプーチンが入り込んで皇后アレクサンドラを手玉に取っており、ロシア社会民主労働党に負けず劣らず滅茶苦茶でした。皇后がラスプーチンの情婦であったとの説は根強く信じられています(もっとも、革命派のデマだという説も有力である)。ロシア政府では、ストルイピンが1911年に社会革命党員によって暗殺されました。手法が強引だったとはいえ、「最後の改革派」とまで称されたストルイピンの死によって、ロシアは泥沼から抜け出せなくなります。

ジノヴィエフ「すごいですよ。党の機関誌やアジビラはほとんどボリシェヴィキばかりです」
レーニン「私たちにはお金があります。どんどん刷ってヨーロッパ中に撒いてください」
ジノヴィエフ「はい!」
レーニン「あと、協議会(大会より1つ格下の会議)を開こうと思うんです」
ジノヴィエフ「えっ、また?」
レーニン「プラハでやります。準備をお願いしますね」
ジノヴィエフ「でも、またメンシェヴィキが多数派になってしまったら……」
レーニン「大丈夫です。シンパに熱心なボリシェヴィキ支持者だけをプラハに送れと扇動させています。どうせ地下組織の指導者の大半はロシアから出てこれませんし、国外ではボリシェヴィキの方が数が多いんです。ふふふ……」

レーニンの目論見は当たり、1912年1月にプラハで開かれた協議会はほとんどがボリシェヴィキだけの出席となりました。中央委員会はボリシェヴィキで占められ、ここでボリシェヴィキとメンシェヴィキの対立は決定的なものとなり、融和はほぼ不可能となります。

レーニン「これで基盤は盤石ですね。あと、『プラウダ』を創刊します。メンシェヴィキの論文は当然載せません」
ジノヴィエフ「メンシェヴィキは怒ってますけど」
レーニン「放っておきましょう」
ジノヴィエフ「でも、ロシア国内やヨーロッパではメンシェヴィキの方がまだ知名度があります。ドイツ社会民主党もメンシェヴィキ支持ですし」
レーニン「厄介ですけど、いずれいなくなってもらいますから」
ジノヴィエフ「完全に追放するんですか……?」
レーニン「さあ。ふふふ……」

こうしてレーニンは、党内での支持基盤をより強固なものにしていったのでした。ちなみにこのプラハでの協議会において、鋼鉄の人・スターリンや、レーニンからの信頼厚いマリノフスキーが中央委員に選ばれています。

レーニン「ご苦労様。また逮捕されたと聞きましたけど」
スターリン「脱走するので平気です」

スターリンの逮捕7回・脱走6回の成績は、全革命家中トップです。

レーニン「カフカス地方での接収はうまくいっているようですね」
スターリン「接収……?」
レーニン「国から党の活動資金を調達することです」
スターリン「ああ、強盗ですか。この間も、現金輸送馬車を襲いました」
レーニン「接収です。……まったく、チフリス人は言葉を選ばないんですね」
スターリン「……」

チフリスとは、グルジアの首都トビリシのドイツ語名です。レーニンはグルジア出身のスターリンを、しばしば「チフリス人」と呼んでバカにしていました。

スターリン「……あれ? ルイコフがいませんね」
レーニン「ルイコフはお勤めに出かけています」
スターリン「どこにですか?」
レーニン「シベリアです」
ルイコフ「……(寒くて口が動かない)」

この時のルイコフは、レーニンと対立してボリシェヴィキを除名になっていました。しかも、警察に逮捕されてシベリア送りと踏んだり蹴ったりです。

スターリン「ところで、強盗……接収はまだ続けますか?」
レーニン「当然です。お金はあればあるだけいいんです」
スターリン「分かりました。では、遠慮なく」

こうした資金調達方法は反感を買います。中には、偽ルーブル印刷計画までありました。用紙と原版が発見された際、メンシェヴィキは激しく非難しています。

マルトフ「無法です。同じ党の人間とは思えません」
レーニン「……(知らんぷり)」



(3)

そんなレーニンに出し抜かれた感のあるメンシェヴィキですが、まだまだ力は持っていました。例えば第3回国会において、ロシア社会民主労働党が送り込んだ代議士は19人でしたが、その内の12人はメンシェヴィキでした。そして国外でも対抗しようと、マルトフら幹部は様々なことを画策しました。

マルトフ「うう……、プラハであんなことするなんてひどいですぅ~。メンシェヴィキも全党協議会を開きますぅ~」
ジノヴィエフ「レーニンさん。メンシェヴィキがウィーンで協議会を開いてますよ」
レーニン「今さら何をしているんでしょう。無視していいです」
ジノヴィエフ「でも、トロツキーが主導しているんです」
レーニン「何ですって!?」
トロツキー「全社会主義者は融合して、世界革命へ進むべきです。対立している場合ではありません」
レーニン「あのユダ(キリストを裏切った人)め!」

レーニンは多数の著作を残していますが、その中で多種多様な罵声を使っています。当時不仲だったトロツキーにも容赦はありませんでした。

トロツキー「ともかく、皆さん歩み寄りましょう」
マルトフ「嫌です。ボリシェヴィキと対話するなんてお断りです」

トロツキーの尽力も空しく、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは共に一切の対話を拒絶しました。融和のための組織として「八月ブロック」が形成されますが、役割を果たせませんでした。


(つづく)




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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(2)

第一革命

(1)

さて、ロシア社会民主労働党内でボリシェヴィキ(レーニン派)とメンシェヴィキ(マルトフ派)が内輪揉めをしていた頃、ロシア国内は一体どのような状況だったのでしょうか。1904年1月には日露戦争が起こり、各地でストライキが頻発。首都サンクトペテルブルクでもテロが横行し、内務大臣プレーヴェが暗殺されるなどの事件が発生します。

これらに対してボリシェヴィキはというと、大して影響力を持ち得ませんでした。後に外務大臣となるリトヴィノフは、ペテルブルクからレーニンに送った手紙に「我々を受け入れてくれるところはほとんどありません……途方もなくあやふやで、危険な状況に置かれています」と書いています。それに比べてメンシェヴィキはまだマシで、ロシア国内での構成人数は多くなかったものの、労働者の支持を得ていました。

そんな中、日露戦争の最中である1905年1月、ロシアを揺るがすある事件が発生します。

ジノヴィエフ「大変ですッ。軍隊がデモ隊に発砲しました!」
レーニン「まあ……。死者はどれくらい?」
ジノヴィエフ「1000人を軽く超えています!」

1月9日の日曜日。昼下がりのサンクトペテルブルクでデモが行われました。参加者は聖像・十字架などを掲げ、先頭にはツァーリ(ロシア皇帝)の肖像画までありました。彼らはツァーリに労働者の権利付与などを直訴するつもりだけで、革命などは口にしておらず、平和的なデモで終わるはずでした。ところが、軍隊はこのデモ隊に向けて発砲。ペテルブルク市内は血に染まりました。これを「血の日曜日事件」と言います。ちなみに、このデモを指導したロシア正教会の司祭・ガポンについては、オフラナ(ロシアの秘密警察。内務省警察部警備局のこと)のスパイだったとする説と、普通の神父だったとする説があります。

ジノヴィエフ「風が吹いてきました。民衆はもうツァーリのことを信用しなくなっています。『ツァーリなんてイラネ』と叫んでますよ」
レーニン「いい機会ですね。第3回党大会を開きましょう」
ジノヴィエフ「主導権奪取ですね!」
レーニン「場所はロンドンがいいでしょう。今度こそボリシェヴィキで党のすべてを……あら?」
トロツキー「おひさしぶりです」
レーニン「トロツキーさん? どうしたのでしょうか」
トロツキー「メンシェヴィキを抜けてきました。今後は無所属でやっていきますから。では、ロシアに戻ります」

1905年4月・ロンドン
レーニン「メンシェヴィキ主義は追放すべきです」
マルトフ「そんなぁ~。レーニンさんは超中央集権主義の危険思想です。ローザ・ルクセンブルクさんだって『レーニンは腹黒さの象徴』って言ってました」
レーニン「大きなお世話です。今後メンシェヴィキは、ボリシェヴィキに全面的に服従するなら、党の中に居場所を与えることにします」
マルトフ「ひ、ひどいですぅ~」
レーニン「あと、中央委員にルイコフさんを」
ルイコフ「わーい」
レーニン「今後はボリシェヴィキが活動方針を決めますから」

メンシェヴィキはこの大会をボイコットする戦術に出ますが、結局はレーニンの思うがままに党は支配されてしまいます。



(2)

この頃のロシア国内では相変わらずテロが頻発。皇帝の伯父であるセルゲイ大公は、社会革命党戦闘団によって爆殺されます。ちなみに社会革命党には、日本の明石元二郎大佐から援助資金が流れ込んでいました。そして、5月には注目すべき事件が起こります。繊維産業の中心地であるイヴァノヴォ・ヴォズネセンスクでのストライキ中、初のソヴィエト(評議会)が誕生したのです。そしてオデッサでは、エイゼンシュタインに映画のネタを提供するため、戦艦ポチョムキンが反乱を起こします。こうして都市部ではストライキ、農村では騒乱が続発し、ロシアは手のつけられない状態になっていきます。1905年1月にはポーツマス条約調印。対外問題であった日露戦争が終結するものの、ストライキの嵐は止みませんでした。

レーニン「私もロシアに帰ろうと思います」
カーメネフ「えー、もう帰っちゃうのー」
レーニン「恐らくゼネストが起こります。革命の絶好のチャンスですから。それに、マルトフさんも帰国しています」
マルトフ「ロシアにメンシェヴィキを広げるんです!」

10月になると、モスクワ=カザン鉄道の鉄道員がゼネストを宣言。ロシア全土に野火のように広がります。こうした中、レーニンは10月8日に帰国しました。

レーニン「やるべきことは……アジ文を書いて民衆を発憤させることですね。『ノーヴァイヤ・ジーズニ』に載せて……と」
ジノヴィエフ「レーニンさん。ペテルブルクにソヴィエトが誕生しました!」
レーニン「なんて素晴らしいことでしょう。これで一歩、共産主義に近づいたんですね」
ジノヴィエフ「でも、幹部にトロツキーがいるんです」
レーニン「何ですって!?」

首都ペテルブルクのソヴィエトでは、メンシェヴィキが力を持っていました。議長にはノサール、副議長にはトロツキーと社会革命党のアフクセンチエフが就任しています。

ロシア宮廷はこれらの騒乱に対処できませんでした。大臣のウィッテは、民衆の不満の根底には閉塞感があると判断します。そこでニコライ2世に妥協を迫り、遂に「十月詔書」の発布に至りました。「十月詔書」では、言論の自由、国会への幅広い参加と普通選挙、人格の不可侵などが盛り込まれ、専制から立憲君主制への移行が目指されていました。民衆はこれを歓迎し、立憲民主党(カデット)、10月17日党(オクチャブリスト)、農民同盟(トルドヴィキ)などが誕生。社会革命党(エスエル)、ロシア社会民主労働党に合法化への道も開きました。

とはいえ、国家の根底を揺るがす運動が許されるはずもなく、ペテルブルク・ソヴィエトは解散。納税拒否闘争を呼びかけたトロツキーは逮捕されました。社会主義者への検挙は止むことがなく、マルトフも逮捕され、亡命を余儀なくされます。

トロツキー「シベリア送り……」
マルトフ「今は雌伏ですぅ~」



(3)

そんな中、ロシア社会民主労働党は相変わらずボリシェヴィキとメンシェヴィキで対立していました。さすがにこれではまずいという声が上がり、両派の融合が模索されます。そして、1906年4月に統一大会(第4回大会)が開催されることになりました。

1906年4月・ストックホルム
レーニン「活動資金を得るためには、手段を選ぶ必要はないと思います」
マルトフ「具体的には何です?」
レーニン「銀行を襲いましょう。M作戦です」
マルトフ「反対ですぅ~」
レーニン「貧乏な民衆にも義援金を配ることにすればいいんです」
マルトフ「絶対反対ですぅ~。そんなのただの強盗です」
レーニン「お金はお金です」

活動方針をめぐり論戦が繰り広げられますが、周囲の尽力もあって、ボリシェヴィキとメンシェヴィキはギリギリのところで対立を回避していました。そして、中央委員が新たに選出されます。

マルトフ「やったー、メンシェヴィキで7議席です!」
レーニン「そんな……わずか3議席。しかも私が選ばれないなんて」
ルイコフ「私は何とか当選しました~」
レーニン「……メンシェヴィキはブルジョワに買収されています。きっとそうです」
マルコフ「ボリシェヴィキの戯言ですぅ~」

レーニンの動議は大会で否決され、ボリシェヴィキは名前に反して少数派となりました。

レーニン「あらあらどうしましょう。……そうだ!」
マルトフ「え、軍事戦術局……?」
レーニン「リーダーは私です。資金調達を行いますから」

多数派となったのはメンシェヴィキで、以後党はメンシェヴィキが導いていく……はずだったのですが、レーニンは新設された軍事戦術局の長に就任。力ずくで暴力革命へと突き進んでいきます。

ジノヴィエフ「活動資金がこんなにたくさん……。強盗ってすごい……」
レーニン「やったもん勝ちですから」

もっとも、こうした資金調達方法に対しては、ボリシェヴィキ内部からも批判はありました。例えば、ロシア社会民主労働党の第4回大会と同時期に行われたボリシェヴィキの協議においては、「銀行強盗の禁止」が可決されています。

一方、ロシア国内では選挙の後に国会が開催されます(ボリシェヴィキはボイコット)。これは短い会期で解散し、ストルイピンが首相となりました。ストルイピンは弾圧と改革の両方に辣腕を振るい、第2回国会のための選挙が始まります。この選挙では左派政党が躍進。危機感を抱いたストルイピンは、1907年6月3日にロシア社会民主労働党の議員を逮捕。同時に国会を解散させました。これを「6月3日のクーデター」と言います。

そこで、レーニンは再びジュネーブへ亡命。これら「血の日曜日事件」から始まり、「十月詔書」を経て、「6月3日のクーデター」で終息した一連の騒乱は、「第一革命」と呼ばれています。


(つづく)




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親子で楽しむ「ボリシェヴィキの結成とロシア革命」(1)

『イスクラ』の発行

(1)

そもそも、どうしてロシアで革命が起こったのでしょうか。理由はいろいろとあるでしょうが、とりわけ、長く続いた専制政治と農奴制をはじめとする農村の後進性、工場労働者の増加と権利意識の増大などが挙げられるでしょう。他のヨーロッパ諸国の文化・技術水準を体験してショックを受けた一部貴族たちの運動とアレクサンドル2世によって、1861年に農奴解放が行われますが、農民の生活向上は非常に緩やかなものでした。労働者も劣悪な環境に置かれており、政治に参加する権利はありませんでした。

そんな中、西欧で発生した社会主義思想がロシア国内にも徐々に浸透していきます。各地で地下組織が結成され、1898年にはロシア社会民主労働党が結成されます。当初は距離を置いていた若きレーニンも、この中に参加していくのでした……。



(2)

1900年12月・チューリヒ
レーニン「うーん……、何をなすべきか?」
マルトフ「どうしたんですか、難しい顔で……。悩み事ですか?」
レーニン「ええ。私たちは弾圧から逃れてスイスまで亡命してきました。でもこのままじゃ、ここで埋もれてしまう気がするんです。今、社会民主主義者の中で力を持ってきた人のことをご存知ですか?」
マルトフ「はい……。経済主義の人たちですよね」
レーニン「そうです。あの人たちは労働運動を通しての地位向上を目指しています。でも今のロシアでは、その方法ではいけないと思うんです。もっと社会主義として、政治闘争を行わないと……。何とかしてそのことを民衆の皆さんに知らしたいんですけど」
マルトフ「あの……、でしたら新聞を発行してはどうでしょう」
レーニン「新聞?」
マルトフ「はい。新聞でしたら自由に主張を載せられます。ロシアにも送ればみんな見てくれますよ」
レーニン「いいアイディアですね、マルトフさん。名前は……そう、『イスクラ』(火花)なんてどうでしょう」
マルトフ「それは革命的です!」

こうしてレーニン、マルトフ、プレハーノフらによって政治新聞『イスクラ』が創刊されました。彼らの主張は、弾圧によって活動不全に陥っていたロシア社会民主労働党内でイスクラ派を結成させることになります(ただし、イスクラ派内にも「強固なイスクラ派」と「軟弱なイスクラ派」があった。レーニンは当然、前者)。そして、レーニンの副官・ジノヴィエフ、シベリアから脱走してきたトロツキー、トロツキーの義弟・カーメネフ、農奴出身のルイコフ(後に「ソヴィエト連邦人民委員会議議長」兼「ロシア共和国人民委員会議議長」となる。恐らく、人類史上最大級の出世)など、イスクラ派は徐々に勢力を増していくのでした。



(3)

他派との論争は、もっぱら『イスクラ』で行われていました。ところがレーニンの主張は、やがてイスクラ派内でも軋轢を生んでいきます。それは、これから巻き起こる権力闘争の序章でもありました……。

レーニン「こうして我が党は、先鋭的な同志たちと活動に邁進しなければならない……と。できました。これを『イスクラ』に載せましょう」
マルトフ「あのぉ~。それってあまりに過激すぎるんじゃ……」
レーニン「そうですか? 普通だと思いますけど」
マルトフ「マニアな革命戦士ばかり集めないで、もっとライト層も取り込むべきだと思います」

レーニンとマルトフは党の方針で対立し、亀裂は徐々に大きくなっていきました。そこでロシア社会民主労働党は、小グループに分かれて活動をすることに終止符を打つべく第2回大会を開催するのですが、ここで2人の間に論争が発生します。

1903年7月・ブリュッセル(ベルギー警察による介入の危険があったために中断)→ロンドン
レーニン「党員は全力で活動する革命戦士だけに限定すべきです。日和見主義者を加える必要はありません」
マルトフ「私は反対です。党費だけを納める人も党員です。ブルジョワが含まれてたっていいじゃないですか」
レーニン「いけません。余計な人まで加えると、活動がおろそかになり、ぬるくなります」
マルトフ「そんなの勝手です。みんなで一緒に革命をするべきです」
レーニン「話になりません。私に賛成する人はこっちに来てください」
マルトフ「私に賛成する人はこっちへ~」

大会は、党員資格をめぐって紛糾しました。レーニンとマルトフの対立はやがて感情的なものにまで発展し、とうとうレーニン率いるボリシェヴィキと、マルトフ率いるメンシェヴィキに分裂します。ボリシェヴィキは多数派という意味で、『イスクラ』編集部や要職を占めたため、こう呼ばれるようになりました。一方のメンシェヴィキは少数派という意味ですが、名前に反してヨーロッパでの支持と知名度は抜群でした。

レーニン「ふう……。マルトフさんは出て行ってしまったけど、こっちにはいい人材が残ってくれました。これで革命ができます」
ジノヴィエフ「はい。任せてください」
ルイコフとカーメネフ「いえーい、頑張りまーす」
レーニン「これだけの人がいれば……あら、トロツキーさんは?」
トロツキー「私はメンシェヴィキに行きます」
レーニン「どうして……」
トロツキー「マルトフの方が指導力ありそうですから」



(4)

こうして2つの派閥となったロシア社会民主労働党は、それぞれが党の目的そっちのけで相手を罵る泥仕合を展開していきます。ただし、対外的にはまだ1つの党であると思われていました。

レーニン「このままでは党が分裂してしまいます。どうすれば……。マルトフさんは話を聞いてくれそうにありませんし……。かといって、私が妥協するのはもっとごめんですし……。そうだ! 何も手を組まなくても、ボリシェヴィキ自体が大きくなっちゃえばいいんです。メンシェヴィキを蹴散らしちゃいましょう」

レーニンは、革命のためにはまず自派の勢力拡大という手段を採っていました。そして、それは次第に容赦のないものへと変貌していくのでした……。


(つづく)




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プロフィール

ばたお

Author:ばたお
・1983年大阪府生まれ。大阪府河内長野市在住
・半自給農民、工場非常勤。できるだけ稼がず、できるだけ消費しません。シェアハウス運営
・土と暮らし研究会

【ツイッター】@BATAO_Hetare
【スカイプ】batao2.0
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