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格差肯定論――階級間平等社会へ(4)

「経済問題」と「承認問題」というアジェンダ・セッティング

前回、私は「赤木さんは『生』の意味づけを要求しているのだ。アイデンティティないしは“つながり”の問題の重要性である」と述べた。これはつまり、「承認や尊厳といったものをいかに分配するのか」という問題である。もっとも、そこには「富や資源の分配」といった経済的な問題が絡み合っているのも事実であるが。


「富や資源の分配」(経済問題)と「承認や尊厳の分配」(承認問題)――。この厄介な問題を検討する上で、2012年10月に日本語訳が出版されたばかりの『再配分か承認か?』は参考になるだろう。これは、アメリカの政治学者でフェミニストとしても有名なナンシー・フレイザーと、フランクフルト学派第三世代の中心人物であるアクセル・ホネットの共著である。ちなみに、ここでいう「再配分」と「承認」とは、それぞれ「富や資源の分配」(経済問題)と「承認や尊厳の分配」(承認問題)に対応している。

この中でフレイザーは、「マイノリティの権利をいかに擁護するか」といった多文化主義的な問題意識から、「再配分」と「承認」を切り離すべきだと主張している。すなわちこれは、「経済問題」から切り離して「承認問題」は検討されるべきだ、という主張である。

一方、ホネットの考えでは、こうした「再配分」と「承認」の分離は正しくない。ホネットによれば、古典的な「再分配をめぐる経済的な闘争」も、「承認をめぐる闘争」として再検討されなくてはならない。なぜなら、賃金が少ないなど「分配の在り方」に問題があるのは、その人に対して十分な「承認」が行われていないからだ。


いずれにせよ、「富や資源の分配」と「承認や尊厳の分配」という相反しながらも密接にかかわり合う2つの問題が、これからの私たちにとって重要となるのは間違いないだろう。そしてこれは、赤木さんの「希望は戦争」論から抽出することのできた非常に有用なアジェンダ・セッティングである。


    ▼フレイザー/ホネット『再配分か承認か?』
    『再配分か承認か?』


さて、当該連載の第2回において、私は「左翼は終焉した」という趣旨の発言をした。では、左翼はなくなってしまえばいいのだろうか。そうではないだろう。

例えば、包丁が危険だからと言って、包丁を廃止しようということにはならないし、警察がヤバイからと言って、警察を廃止しようということにはならない。それと同様に、左翼がダメぽだからと言って、左翼を廃止しようということにはならない。むしろ、ますます奮闘しなければならない。

赤木智弘問題で終焉したのは、「的外れな言動を繰り返す正しい人たち」という意味における「戦後左翼」である。従って、これからの左翼は、「経済問題」と「承認問題」に取り組む「左翼2.0」としてアップデートされる必要があるのではないだろうか。


(つづく)




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格差肯定論――階級間平等社会へ(3)

「スクライド」的未来論

(1)

「戦地に送られて真っ先に死ぬのはあなたです。なので、戦争を待望すれば自分の首を絞めるだけです」――。

いや、「生きる/死ぬ」というのは、そういう問題ではないだろう。それは、十分に「承認」を受けている人のほざく台詞である。赤木さんはそれとは異なる。彼の立場に立たなければならない。想像力の問題だ。

「死」が怖いのではない。
「意味のない死」が怖い。
「死」に意味が欲しい。
「生」と「死」は表裏一体である。
すなわち、「生」に意味が欲しいのだ。

「生」がどのように営まれるかによって、「死」の生じさせる怖さや不安の意味も変わってくる。

このまま親が死んだら、経済的に自立していない私も死ぬしかない。
どうせ死ぬのだったら、戦争でも起こって、それで死んだ方がよっぽどマシだ。
なぜなら、左翼は正しいことを言うだけで、何もしてくれない――問題を理解さえしてくれないのだから。



(2)

なぜ、戦争で死んだ方がマシなのか。
戦争で死ねば、自らの「死」を「悲劇の物語」として回収できる。

もちろん、戦争は「悲劇」などではない。
「悲劇」(笑)である。

しかし、人は自らの「生=死」を物語化したい。
そうでなければ、人は生きられないからだ。
それがいかに、「悲劇」(笑)であろうとも。

フリーターとして生き、そして死んでも、多くのインテリがそう言うように、そんなものは「取るに足らない問題」である。何の意味もないのだ。

しかし、戦争で死んだとすれば、それは「悲劇」(笑)である。「悲劇」(笑)の物語として、自らの「生=死」に意味をつけることができる。インテリたちも嬉々として、彼の「死」を取り上げ、それについて論評するだろう。



(3)

自分の存在とは何か。
自分の価値とは何か。

すなわち、赤木さんは「生」の意味づけを要求しているのだ。
アイデンティティないしは“つながり”の問題の重要性である。
こうした機微を理解しないならば、いわゆる「右傾化」した人たちに、左翼系知識人たちの言葉は永遠に届くことはないだろう。



(4)

今、私たち一般市民が求めているのは、必ずしも〈説得的な論理〉ではない。

理想ではなく感情。
理性ではなく情念。

つまり、〈将来への欲動〉こそが必要なのだ。

そうした〈将来への欲動〉に満ちた未来論――。
それをここでは谷口悟朗監督に敬意を表して、「スクライド」的未来論と呼ぶことにしたい。


  ▼『スクライド』OP ―― 井出泰彰『Reckless fire』
  
  谷口悟朗「スクライドは男の話なので、女に関して語ることなどなにもありません」

   『スクライド』・谷口悟朗(1)    『スクライド』・谷口悟朗(2)    『スクライド』・谷口悟朗(3)


(つづく)




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格差肯定論――階級間平等社会へ(2)

「正しいだけで、意味がない」という“的外れ”問題

(1)

さてここからは、赤木智弘さんの「希望は戦争」論を足掛かりに、議論を進めていくことにしたい。

以下の文章は、『論座』2007年1月号に掲載された赤木さんの「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」からの抜粋である。

夜勤明けの日曜日の朝、家に帰って寝る前に近所のショッピングセンターに出かけると、私と同年代とおぼしきお父さんが、妻と子どもを連れて、仲良さそうにショッピングを楽しんでいる。男も30歳を過ぎると、怒濤の結婚ラッシュが始まるようで、かつての友人たちも次々に結婚を決めている。

一方、私はといえば、結婚どころか親元に寄生して、自分一人の身ですら養えない状況を、かれこれ十数年も余儀なくされている。31歳の私にとって、自分がフリーターであるという現状は、耐えがたい屈辱である。

(中略)

しかも、この情けない状況すらいつまで続くか分からない。年老いた父親が働けなくなれば、生活の保障はないのだ。

(中略)

そして何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、世間がまったく理解してくれないことだ。「仕事が大変だ」という愚痴にはあっさりと首を縦に振る世間が、「マトモな仕事につけなくて大変だ」という愚痴には「それは努力が足りないからだ」と嘲笑を浴びせる。何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないというプレッシャーばかり与えられるが、もがいたからといって事態が好転する可能性は低い。そんな状況で希望を持って生きられる人間などいない

2006年7月に放送された、NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」を見ながら、私はなんとなく違和感を覚えていた。

(中略)

その違和感を突き詰めていくと、番組では「元サラリーマン」「イチゴ農家」「仕立屋」といった経済成長世代と、「ホームレスになってしまった30代の若者」「フリーターである私」というポストバブル世代の間にある大きな差違を、見過ごしてしまっていることに気づく。

前者が家庭を手に入れ、社会的にも自立し、人間としての尊厳をかつて十分に得たことのある人たちである一方、後者は社会人になった時点ですでにバブルが崩壊していて、最初から何も得ることができなかった人たちである。前者には少なくともチャンスはあった。後者は社会に出た時点ですでに労働市場は狭き門になっており、チャンスそのものがなかった。それを同列に弱者であるとする見方には、私はどうも納得がいかない。

特に、仕立職人が、妻の葬儀のために手をつけずにいる貯金のために、生活保護を得られないことについて、識者が「妻の葬儀の費用を自力でまかないたいというのは人間の尊厳であり、それを捨てないと生活保護を得られないことに問題がある」と述べていたことが気にかかる。それが尊厳だというのなら、結婚して家庭を持つことや100万円の貯金など夢のまた夢でしかない我々フリーターの尊厳は、いったいどこに消えてしまったのか

識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう

そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。

戦争は悲惨だ。

しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。




(2)

この「希望は戦争」論に対して、多くのインテリ――とりわけ左翼系知識人たちが応答したが、それらのほとんどは、かなり厳しく赤木さんを批判するものであった。それらの主張をやや強引にまとめるならば、以下の3点のようになるだろう。

 主張①:「戦地に送られて真っ先に死ぬのはあなたです」という“的外れ”なもの

 主張②:「取るに足らない問題。あなたより不幸な人はいる」と一蹴するもの

 主張③:「立ち上がれ。動いてみせろ」という自己責任論

主張①を中心に、人によっては主張②あるいは主張③がセットになるというものが、多くのインテリのそれであった。加えて言えば、対案のようなものを提出した方は、ほとんどいなかった。

私はここに、インテリ――左翼系知識人たちの終焉を見た。



(3)

さて、先のインテリたちの発言で重要なのは、主張①である。そこで私は、「戦地に送られて真っ先に死ぬのはあなたです」というのが“的外れ”であると記した。では、それは一体どういうことだろうか。

この“的外れ”問題は、「対案ないしは対案のようなものを出しもせずに、そのような主張をいけしゃあしゃあと言ってしまえる」という態度と緩やかにではあるが確実に繋がっている、というのがポイントである。



(4)

もっとも、上記の主張①~③は、概ねすべて正しい。左翼系知識人たちは、間違ったことを言ってはいない。

しかしながら、意味がない。

この「正しいことを言っているのはそうなのだけれど、それに何の意味もない」というのは、もしかすると、戦後から一貫する左翼の特徴であるのかも知れない。

私の用語系で言えば、「エリート的な原則論」だけで、「庶民的な生活実感論」が抜け落ちている。つまり、「生活保守主義」的な視点がないために、「正しいだけで、意味がない」と私たち一般市民は感じるのである。

こうしたインテリたちの「正しいだけで、意味がない」という“的外れ”問題は、かつての記事「〈世代論〉のズレ――「エリート的な原則論」と「庶民的な生活実感論」」においても確認することができるだろう。

ちなみに、こうした左翼系知識人たちによる赤木智弘問題の軽視は、2008年の「秋葉原通り魔事件」へとつながることになる……。


(つづく)




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格差肯定論――階級間平等社会へ(1)

格差社会を批判するあなたが、なぜ、そんなに持っているのですか?

(1)

「格差社会は問題である」――。私としては、そう唱えている人を非難するつもりはまったくない。むしろ、頑張って様々な活動をやっていただきい。

しかしながら、彼/彼女らに「本気で格差を是正しようという気」がないのも、また事実である。なぜなら、皆が社会の最底辺を生きる人の生活レベルに合わしさえすれば、その社会を平等なものにできるからだ。しかも、それは比較的容易に実現できるだろう。

にもかかわらず、やらない。「最底辺に合わせるのは欺瞞である」といったような詭弁を弄し、それをやろうとしない。

もちろん、現実として社会の最底辺を生きている私がこうした主張をするのは、ある意味において特権的であることは自覚している。しかし……、である。ここで、ある1つの疑問が生じる。

「格差社会を批判するあなたが、なぜ、そんなに持っているのですか?」

すなわち、格差社会論というのは、本来的には社会の最底辺を生きる人にしか語り得ないものなのではないか。そんな素朴で、かつ根本的な疑問である。



(2)

では、彼/彼女らは何を行ってきたか。

「格差社会における負け組が、ナショナリズムに取り込まれている」

もちろん、そうした危機意識が理解できないわけではない。それなりの正当な理由があるからだ。

しかしながら、格差社会における負け組が、「日本国民である」というだけで優越感を持ち、それを以て「幸せ」に暮らしていることを、一体誰が責められるだろうか。少なくとも、格差社会に対する有効な処方箋を出さず、また現実の格差社会を一切変革しないような人間に、その資格がないことは明らかである。



(3)

当該連載は、以上のような問題意識を抱え込んだものになる予定である。


(つづく)




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