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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(13)最終回

凡庸さの追求へ

さて、上野千鶴子さんにより実証史家とラベリングされた吉見義明さんは、彼女に対して次のように述べている。

●吉見義明「被害者に見えぬ構造に資料で光を当てる」――『論座』1997年12月号

上野さんは、「慰安婦」論争は「思想をめぐる戦いである」と言われましたが、私は「事実」と「思想」の両方をめぐる戦いであるという認識を持っています。その戦いなしには、政府の見解を変え、補償立法を実現することは難しいでしょう。



そもそもポストモダン歴史学は、実証史学における「政治的な鈍感さを克服するため」に立ち上げられた〈政治的なもの〉でもある。よって、安易な理論化・幻惑的なジャーゴンに囚われることなく、〈歴史記述への責任〉を超えた〈歴史そのものへの責任〉を問い返していくこと。すなわち、「思想」と「事実」の交差から浮かび上がる〈政治的なもの〉を、具体的な歴史記述において示していくという言わば凡庸さの追求こそが、これからのポストモダン歴史学――いまや制度化されつつある――にとっての課題なのではないだろうか。



※サブタイトル一覧
  第1回  はじめに――ポストモダニストの歴史認識論
  第2回  歴史の政治学
  第3回  ポストモダン歴史学とは
  第4回  ポストモダン歴史学の意義
  第5回  ジェンダー・ヒストリーのインパクト
  第6回  実証史学の陥穽
  第7回  ジェンダー・ヒストリーとは「現在の思想闘争」である
  第8回  歴史記述への責任
  第9回  知的安全圏へと避難する歴史学者
  第10回  歴史そのものへの責任
  第11回  身体化された記憶
  第12回  再帰性の問題
  第13回  凡庸さの追求へ(最終回)



※参考文献一覧
  ・上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』
  ・大塚英志・東浩紀『リアルのゆくえ』
  ・カルロ・ギンズブルグ『裁判官と歴史家』
  ・高橋哲哉『記憶のエチカ』
  ・野家啓一『物語の哲学』
  ・リチャード・エヴァンズ『歴史学の擁護』
  ・東浩紀・大澤信亮・佐々木敦「ゼロ年代の言論」(『論座』2008年5月号より)
  ・ヘイドン・ホワイト「ポストモダニズムと歴史叙述」
     (『立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点 生存学研究センター報告13』より)
  ・吉見義明「被害者に見えぬ構造に資料で光を当てる」(『論座』1997年12月号より)



(おわり)





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ポストモダン歴史学からの出発 by 根保孝栄・石塚邦男
v-293ポストモダンから見た歴史小説を企んでます。意図するだけでなく<たくらみ>に滑り込んで行く・・という壮途です。e-447
Re: ポストモダン歴史学からの出発 by ばたお
根保孝栄・石塚邦男さん

コメントありがとうございます。

面白そうですね。完成したら教えてください。
……そう言えば、『文学部唯野教授』がもう一度読みたくなってきました。

ナショナリズムの台頭を憂う by 根保孝栄・石塚邦男
正しい意味の民族の誇りであるナショナリズムは許容できるが、覇権争いのナショナリズムの台頭は害あって益ないもの。
日本が対中国、韓国に向けたヘイトな意識は危険なナショナリズム醸成を促進するもので先行きが心配だ。
Re: ナショナリズムの台頭を憂う by ばたお
根保孝栄・石塚邦男さん

コメントありがとうございます。

日本の進歩的知識人には、ナショナリズムを全否定される方が多いですが、
私も正しい意味でのナショナリズムはあると考えています。

もっとも、今、一部で台頭しつつあるのは、ナショナリズムというよりは民族排外主義です。
そうした人種差別(出自や民族など生来の属性を理由にその人を攻撃すること)を、
私たちは許してはならないと思います。

慰安婦問題の今日的意味 by 根保孝栄・石塚邦男
v-405
果たして事実はどうだったのか、日本人も知りたいところです。不確かな伝聞で過去の日本軍の残虐を裁こうとする韓国のバッシングは解せません。

思想の戦いであり、事実はどうであるかの戦いでもあります。
Re: 慰安婦問題の今日的意味 by ばたお
根保孝栄・石塚邦男さん

コメントありがとうございます。

歴史に向き合おうとしない日本側に、そもそもの問題があると思います。

もっとも、それを政治利用し、
反日政策をして国内での支持を取り付けようとする韓国や中国にも問題はあると思いますが。

政治的であること by 根保孝栄・石塚邦男
政治が嫌いな人がいる。
政治的旗印が人間相互の不信を生むので、政治的発言は前面に出さないでほしい、という者がいる。
Re: 政治的であること by ばたお
根保孝栄・石塚邦男さん

コメントありがとうございます。

多くの人にとって、政治というのはかかわりたくないものである。
しかし現状においては、政治を避ければ避けるほど、日常生活に政治が入り込んでくる。

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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(12)

再帰性の問題

歴史において〈政治的である〉とは、歴史記述のすべてを物語行為へと還元し、メタ・ヒストリー(歴史学の歴史学)へと居直ることでも、歴史記述の真偽を問うことに冷笑を浴びせることでもないはずだ(補足すれば、上野千鶴子さんをはじめ、ポストモダン歴史学の論者すべてが、こうした「居直り」をしているとは思わない。しかし、彼/彼女らの実証史学批判が、意図しない形で「メタ・ヒストリーへの居直り」「実証史学への冷笑」と読み取られてしまう可能性は否定できないだろう)。〈現在〉の政治的なアジェンダへの没入は、〈歴史そのものへの責任〉を曖昧にしてしまう。

もちろん、ポストモダン歴史学の唱える「物語性」「分析者の位置」といった論点の重要性は疑うべくもない。しかしながら、分析者の位置に際限ない反省を加え、〈現在〉の分析にのみ禁欲する方法論を採用したからといって、それだけで歴史において〈政治的である〉ということにはならないだろう。

従って、分析者の位置を問い返すという再帰性の問題について、私たちは両義的でなければならないのかも知れない。なぜなら、そうした再帰性の問題を先鋭化させることは、「分析者の特権を否定し、当事者性を重視する」というポストモダン歴史学の理念が、逆説的に当事者性を否定してしまうことになりかねないからだ。


(つづく)




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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(11)

身体化された記憶

〈歴史そのものへの責任〉の抑圧によってもたらされるであろう政治的な帰結についても、私たちは注意を払う必要がある。

「過去の事実と対応しているから正当化される」のではなく、「〈現在〉において適切とされるから正当化される」というポストモダニストの歴史認識論は、確かに公文書中心主義の下では信憑性を疑われてしまうサヴァイヴァー(例えば、元慰安婦たち)の語りを掬い取ることを可能にし、彼/彼女らのエンパワーメントに寄与するかも知れない。

しかしながら、そうした必死の語りを、〈現在〉における彼/彼女らのアイデンティティを構成する「記憶=物語」として回収してしまってよいものなのだろうか。むしろ、彼/彼女らの身体に刻み込まれた歴史の痕跡――物語としての記憶ではなく、身体化された記憶――を、私たちの〈現在〉と過去とを繋ぐ経路として、真摯に受け止めるべきなのではないだろうか(そして、こうした在り方こそが、本来的なオーラル・ヒストリーの姿なのではないだろうか)。


(つづく)




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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(10)

歴史そのものへの責任

歴史家の課題とは、同時代の人々に受容される説得的な歴史記述を提示することではないはずである(それは、歴史作家の仕事であろう)。歴史家は、自らの歴史記述が過去の事実と照らし合わせて「偽」であり得ることを十分に自覚しつつ、現時点で収集可能な史料から「一応、真」である歴史記述を唱えなければならない。つまり、歴史家は「神の視点に立つ」ので真理を追究するのではなく、「神の視点には立ち得ない」ことを痛切に自覚するが故に、「究極的には知り得ない過去そのもの」を追究し続けなくてはならないのだ。これは、〈歴史記述への責任〉を超えたところにある〈歴史そのものへの責任〉だと言えるだろう。


歴史記述において「真/偽」という枠組みを解体し、問題の水準を「適切さ」へと移行させる「物語論的・構築主義的な歴史観」は、以上のような(良心的な)歴史家であれば引き受けざるを得ないであろう〈歴史そのものへの責任〉を忘却させてしまう可能性がある。


◆参考文献
 ・カルロ・ギンズブルグ『裁判官と歴史家』
 ・リチャード・エヴァンズ『歴史学の擁護』


(つづく)




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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(9)

知的安全圏へと避難する歴史学者

これまで議論してきたポストモダン歴史学の主張に対して、私は原則的に同意している。とりわけ、「歴史記述とは〈現在〉の視角から構成されたものに過ぎない」という認識論的主張は、認めざるを得ないものであろう。しかしながら、私はこうしたポストモダン歴史学に、理論的には説得されているものの、感情論的には納得していない。少なくとも、「記憶の政治学」「過去の表象不可能性」といったジャーゴンによって、吉見義明・鈴木裕子的な実証史研究の意義が相対化されることには、言いようのない苛立ちを覚えてしまう。


「過去は〈現在〉から政治的に構成されている」と言ってしまうのは、簡単なことである。しかし、仮に歴史学の権威が「過去は〈現在〉から政治的に構成されているのだ」と“したり顔”で唱えるようなことがあるならば、そこには何かが見過ごされているとは言えないだろうか。


(つづく)




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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(8)

歴史記述への責任

ポストモダン歴史学の唱える「物語論的・構築主義的な歴史観」によれば、歴史記述とは、過去の事実と照らし合わせてその「真/偽」を測定されるようなものではなく、〈現在〉における受容可能性あるいは主張可能性に応じて「適切/不適切」を判定されるものに過ぎない。すなわち、ある歴史記述は、「過去の事実と一致している」から正当化されるのではなく、〈現在〉において「適切なものとされている」からこそ正当化されるのである(その適切性を判定する主体は、往々にして社会的マジョリティである)。

こうした反実在論的な主張は、〈現在〉において歴史を記述・受容するという自らの立ち位置への自覚――〈歴史記述への責任〉を、私たちに突き付けていると言えるだろう。


◆参考文献
 ・野家啓一『物語の哲学』




≪ 発表を行った際に寄せられた意見や感想より ≫

この論点に関して、(発表の準備段階からの想定通り)議論となったのですが、時間の関係上、やや中途半端なままで打ち切る形となってしまいました。そこで、当該連載でも子細にはあえて立ち入らないことにしました。また別の機会にて論じることにしたいと考えています。


(つづく)





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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(7)

ジェンダー・ヒストリーとは「現在の思想闘争」である

すなわち上野千鶴子さんによれば、ジェンダー・ヒストリーとは、

1〉元慰安婦たちの語りを、「文書に従属する補助資料」でも「過去の事実を表象するもの」でもなく、彼女たちの〈現在〉という位置から遡及的に構築された物語として捉えること。

2〉元慰安婦たちの語りの不整合や矛盾をデータの信頼性を損ねるものとしてネガティブに捉えるのではなく、むしろそうした不整合・矛盾から見えてくる彼女たちのアイデンティティの在り方を読み解いていくこと。

であり、これは「従軍慰安婦」問題を、「過去の真実をめぐる闘争」から「現在において構築される〈過去〉をめぐる、現在の思想闘争」へと転換させていくものである。


◆参考文献
 ・上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』


(つづく)




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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(6)

実証史学の陥穽

では、なぜジェンダー・ヒストリーには「インパクト」があるのか。それを理解するには、「従軍慰安婦」問題をめぐる「過去の事実を表象する」実証史学の陥穽について押さえておく必要があるだろう。


1〉「証言」を二次的な史料として扱うという文書中心主義の問題
・文書史料の決定的な不足により、例えば「従軍慰安婦など存在しなかった」などという主張を退けることが困難であること。むしろ、政府や軍が残した文書を見る限りでは歴史修正主義者の方に利があること。

2〉語ることの不可能性という問題
・仮に「証言」に史料的な意味を認めたとしても、サヴァイヴァー(例えば、元慰安婦たち)からその過酷な体験の証言を得るのは容易ではないこと。

3〉語り(オーラル・ヒストリー)の扱いに関して、客観的=非主観的な歴史記述に固執するために発生する問題
・かろうじて「証言」が得られたとしても、それをそのまま過去の出来事を表す史料として取り扱うことができないということ。


実証史学に以上のような弱点があるからこそ、上野千鶴子さんは、文書史料中心主義を解体し、「客観的・中立的」な事実の追究という従来の歴史学の課題を否定し、元慰安婦たちの〈現在〉の語りを重視するというオーラル・ヒストリーの必要性を訴えているのである。


◆参考文献
 ・上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』


(つづく)




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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(5)

ジェンダー・ヒストリーのインパクト

さて、「従軍慰安婦」問題に関して、上野千鶴子さんはポストモダン歴史学的な観点から、「新しい歴史教科書をつくる会」と実証史家の吉見義明さんが、元慰安婦たちへのまなざしは違うものの、歴史認識論については同じであるとしている。そして、従来の歴史学に対するジェンダー・ヒストリーを主張し、そのインパクトを以下の3点にまとめている。

1〉文書史料中心主義への挑戦:公文書自体が時の権力によって構成された表象であるのだから、史料のおかれた歴史的条件を見据えなくてはならない。

2〉学問の「客観性・中立性」神話への挑戦:客観性とは、強者のルールである。

3〉オーラル・ヒストリー、口承の歴史証言の方法論的挑戦:文字化されない歴史についての、当事者の記憶と語りに留意する。


◆参考文献
 ・上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』


(つづく)




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歴史において〈政治的である〉とは何か――ポストモダン歴史学の批判的検討(4)

ポストモダン歴史学の意義

「言語・言説によるリアリティの構築」「現在の政治的関係の中で構成される過去」といった理念の基に展開されるポストモダン歴史学は、何も単なる「理論信仰」から生まれたわけではない。

その端緒は、従来の歴史学が見過ごしてきた政治的契機を可視化すること――それは、「女性」というカテゴリーを歴史的に不変なものとして捉えてきた労働史・女性史に対するスコットの憤りであり、公式に残された史料を特権視する実証史学へのラ・カプラによる異議申し立てである――によって、「歴史の番人」「歴史の裁判官」といった歴史家像を根底から問い返すという問題意識にあった。

ポストモダン歴史学の実践は、「公文書のどこに書いてある」「そんな史料は眉唾だ」と主張する歴史修正主義者に対して、「実際に何があったのか」という実証史学的な問題の枠組みをいったん脱臼させ、問いの構造そのものを転換させるという切実な政治的・倫理的意味を持っていたのである。

また、アーレントによれば、ジェノサイドとは、ユダヤ人の大量虐殺という実定的な出来事を意味するだけでなく、そうした出来事が存在したことの痕跡(証人・証拠)をも根絶してしまおうとする非出来事でもある。このような非出来事を、出来事として表象することの困難さ、あるいは不可能性というのも、ポストモダン歴史学の論者を実証史学批判に向かわせた。


◆参考文献
 ・高橋哲哉『記憶のエチカ』



※参考記事:「慰安婦、強制連行の証拠ない」 橋下大阪市長が言及――MSN産経ニュース

大阪市の橋下徹市長は21日(注――2012/8/21)、日韓関係について記者団の質問に答え、いわゆる慰安婦問題について「慰安婦が(日本)軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられたという証拠はない。そういうものがあったのなら、韓国にも(証拠を)出してもらいたい」と述べた。

橋下市長は「(慰安婦の)強制連行の事実があったのか、確たる証拠はないというのが日本の考え方で、僕はその見解に立っている」とし、「韓国としっかり論戦したらいい」と話した。



(つづく)




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No title by 根保孝栄・石塚邦男
ポストモダンの歴史学についての明晰な記述、見事です。

これは、文学における「文献学者」の実証的な古い探査方法にも新たな視界を与えるものと平行するものでしょう。

Re: No title by ばたお
根保孝栄・石塚邦男さん

コメントありがとうございます。

タイトルからも明らかなように、私は「ポストモダン歴史学」の立場を手放しに称賛してはいません。しかし一方で、「実証主義歴史学」(近代歴史学、ランケ史学)の〈現実の政治〉に対する鈍感さに危惧を覚えています。

私はポストモダン歴史学の嚆矢を、実証主義歴史学が方法論にこだわり過ぎるあまり〈政治的〉でなくなってしまったことにある、と捉えています。〈政治的〉であることは科学や学問にとって必ずしも有害なことではなく、むしろ〈現実の政治〉を無視することで生まれる不利益・不都合の方が大きい場合が多いことを考慮し、そういった意味においてポストモダン歴史学には意義があると思っています。

実証主義と文献主義を超克して by 根保孝栄・石塚邦男
慰安婦問題で橋下維新代表のコメントが波紋を呼んでいるが、タブーに政治的に挑戦した姿勢は大いに買っていいと思ってます。

日本軍の慰安婦虐待問題が世界の顰蹙を買ってますが、橋下は「日本も反省すべきだが、欧米諸国も同じように婦女を兵隊の慰安に利用していた実態を認めるべきである」と提言、物議をよんでいる。

これは日本として世界に発信して「日本も悪かったが、あなたたちも同じことをしていたことを認めて、二度と悲惨のないように考えてほしい」と主張しているところが、ポストモダニズム的姿勢として評価したい。
Re: 実証主義と文献主義を超克して by ばたお
根保孝栄・石塚邦男さん

コメントありがとうございます。

橋下さんがそういった目的で主張しているのならば、私もその意見に同意します。

ちなみに個人的な解釈によると、「戦争に慰安婦は絶対に必要というわけではなく、慰安婦なしに戦争は行われるべき」なのか(慰安婦無価値論)、「戦争は慰安婦をはじめとしたあらゆる暴力を必然的に引き起こすので、戦争そのものがよくない」のか(戦争無価値論)、そういった議論が必ずしも明確になっておらず、あるいは渾然一体となっているのが、今回の橋下発言の炎上の要因の1つではないかと思っています。

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プロフィール

ばたお

Author:ばたお
・1983年大阪府生まれ。大阪府河内長野市在住
・半自給農民、工場非常勤。できるだけ稼がず、できるだけ消費しません。シェアハウス運営
・土と暮らし研究会

【ツイッター】@BATAO_Hetare
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