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不可視化される「コストの外部化」――グローバル経済の本質

『食の終焉』
▲ポール・ロバーツ(神保哲生・訳)『食の終焉』


(1)

現在、アメリカをはじめとした世界のおよそ10億人がカロリーの過剰摂取状態にあり、すなわち先進国のほとんどで肥満が社会問題となっている。その一方で、世界にはほぼそれと同じぐらいの数の人間が、貧困により1日1ドル以下の生活や1日1食にもありつけない極貧状態におかれている。

このような状態は、明らかに正常ではないだろう。「グローバル化した食システム」に何か問題があるはずだ。そうした疑問に対して、膨大で緻密な取材を基にして解明を試みているのが本書である。



(2)

今日の「グローバル化した食システム」は、過度の自由化や規制緩和によって、生産・開発・加工・貿易・流通・小売などそれぞれの階層で一握りの大資本に支配されるようになった。中でも、大手小売業者の力は絶大である。

食品メーカーは大手小売業者のニーズに答えるため、より安い商品を世界中から探すようになる。大口の取引先である食品メーカーの注文に応えるべく、食品供給業者は人件費や土地利用料が安く、農薬などについての規制の少ない途上国を探す。途上国は先進国への販路を確保し、貿易収支の黒字化による経済成長を求め、大規模農場を作り、作物のモノカルチャー化を進め、劣悪な環境の下で大量の労働者を低賃金で働かせる。

そうして、生産者が作った農作物は食品供給業者に買い叩かれ、それを食品メーカーが加工し、最終的に「地域最安値!」というポップとともに店頭で売り出されるというわけだ。

肉・魚・野菜など生鮮食品から、インスタント・コーヒーやシリアルなど加工食品まで、スーパーに行けば世界中の食品を1年中いつでも安く手に入れることができるのは、このような「グローバル化した食システム」のおかげなのである。



(3)

もっとも、「グローバル化した食システム」を最後までたどれば、実は私たち消費者に行き着く。なぜなら、私たち消費者の前には、大手小売業者ですら跪かざるを得ないからだ。

私たちは「地域最安値!」というポップの裏側を問うことなどなく、1円でも安いモノを購入する。そして、それが消費者としての“当たり前”の行為――合理的な選択である、と考えている。しかし実際には、安売りとは「価格の外部化」に過ぎず、そうしたツケ――「外部化されたコスト」(価格のみならず、自然環境や人間関係なども含む)は回りまわって自分たちに返ってくる……。

私たちは、「大手小売業者-食品メーカー-食品供給業者」が、途上国の生産者を搾取している事実に憤ることもあるかも知れない。しかしながら、そのような「グローバル化した食システム」を稼働させているのは、実際には「安売り」に飛び付く私たち消費者なのである。



(4)

「私たち消費者こそが、貧困を作り出している主犯格なのだ」――。本書の中核となる主張は、読んでいて気持ちのいいものではない。そこで明らかにされる「グローバル化した食システム」の実態は、実に不愉快なものだ。

では、現状を抜け出すにはどうすればいいのか。それには、私たち一人ひとりの消費行動を変えるしかない。その際のキーポイントは、「外部化されたコストにどれだけ自覚的であるか」である。

そして著者は、「自分自身の食管理を、自分自身の手に取り戻すこと」が必要であると言う。私たちは何でも好きなものを好きなときに食べられるようなつもりでいるが、実は広告やメディアの食企画などによって、何を食べるのか、あるいは何を食べたいのか、知らない内に言いなりになってはいないだろうか。まずは、そうした身近な問題から変えていこうというのが、著者の提案である。

具体的には、自分を消費者だと考えるのをやめ、自分で何か食料を作ることが薦められている。庭で野菜を育ててもいいし、市民農園に参加するのもいい。外食ばかりしている人は、料理をするだけでもいい。そして、できるだけ加工されていないモノを食べ、肉の量を減らす。そうした「自分の家の台所」という手の届くところを取っ掛かりにすることが、結局は自分を変え、地域コミュニティを変え、国を変え、そして究極的には世界を変えることにつながるのである。



●関連記事
 → 「減量主義」という食生活の在り方




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反省させると犯罪者になります

『反省させると犯罪者になります』
▲岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』

反省させても意味がない。むしろ、それは逆効果であり、反省しなければ意味がない。つまり、反省は過程ではなく、結果に過ぎないわけだ。では、どうするか。被害者の心情をではなく、加害者の視点で考えさせることが、結果としての反省を導くのに効果的だという。




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〈資本主義の問題〉としての従軍慰安婦

박유하『제국의위안부――식민지지배와 기억의투쟁』(日本語版未刊行・朴裕河『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』)
▲박유하『제국의위안부――식민지지배와 기억의투쟁』(日本語版未刊行・朴裕河『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』)


本書は韓国で出版されたものだが、非常に論争的である。

まず従軍慰安婦と言えば、韓国人は駐韓日本大使館前に設置された慰安婦像のような「短髪の少女」を思い浮かべる。しかし、それは誤りだという。著者によれば、韓国で慰安婦にされた者の多くは、「短髪の少女」=教養のある女子学生ではなく、貧しい成人女性であり、慰安婦にされた女子中高生の多くは日本人だった。また慰安婦にされた経緯についても、韓国では「日本軍による強制」という神話が共有されているが、実際には朝鮮人の役人や業者に騙された場合が多かったという。

日韓それぞれの慰安婦支援団体の在り方についても、問題点が指摘されている。すなわち、日本の支援団体は、慰安婦運動を保守政治の構図を変えようとする左派陣営の手段として引き回した。一方、韓国の支援団体は、「抵抗する慰安婦」と「反省しない日本」という一方的なイメージを作り上げ、大衆の民族主義を煽ったという。それを踏まえて著者は、慰安婦を「自分たちにとって都合のいい存在」に仕立て上げるのではなく、「一人の人間」へと戻すことができるような運動の必要性を訴えている。

現在、著者は韓国世論から「親日派」「偽装した日本の右翼」と批判され、とりわけネット上では「日本女」(일본녀)と呼ばれて叩かれている。しかし私は、確かに問題はあるのかも知れないものの、著者の「日本の帝国主義勢力が、韓国の慰安婦を作り出した」ではなく、「日韓の資本主義勢力が、日韓の慰安婦を作り出した」というような主張に対して、ある種の意義を感じた。つまり「慰安婦問題とは、国家の問題でも民族の問題でもなく、資本の問題なのだ」という視点の重要性である。無論、だからと言って、日本の朝鮮植民地支配そのものが免責されるということにはならないし、免責してもいけない。著者自身も、日本の朝鮮植民地支配を免責してはいない。




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国民のための国家――「国家を縛る原理」としてのナショナリズム

『ナショナリズムは悪なのか』
▲萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』


(1)

日本では、ナショナリズムという言葉自体に「排他性」や「差別性」といったネガティブな意味が含まれる傾向にあるため、ナショナリズムと言えば「悪いもの」「危険なもの」と考える人がいる。とりわけ進歩的な知識人の多くは、ナショナリズムがフィクションであることを暴き、それを克服し、国境なき世界へというような議論を展開している。それどころか、ナショナリズムが「排外主義」や「帝国主義」と同義だと捉えられることもある――。

著者の主張に同意するかどうかはともかく、以上のような無前提に「ナショナリズム=悪」だと観念している日本の多くの左翼にとって、本書は必読であるような気がする。ちなみに著者は、元・早稲田大学のノンセクト活動家(いわゆる、テキサス〔=花咲政之輔〕の奴隷)である。



(2)

さて、著者によれば、ナショナリズムは国家の問題と切り離せない。では、国家とは何か。国家とは、「物理的な暴力行使を背景にして人々を法的決定に従わせる運動」である。つまり、「暴力の独占」こそが国家の本質であるということだ。

そんな中で「ナショナリズムはフィクションに過ぎない」と唱えることに、一体どれほどの意義があるだろうか。確かに、「相対的な視点を学ぶ」ためならば、こうした発想に一定の有用性も認められるだろう。しかし、「現実の生活を考えていく」上では、あまり有効な実践に結び付いていないのではないか。例えば、利益の再分配を求める場合、ナショナリズムがフィクションであることを認めた上で、そのフィクションに基づいて再分配を実現するという以外に、なかなか方策は見つからないのではないかということだ。



(3)

著者はナショナリズムを肯定するにあたり、その範囲を限定している。基本的に「国家は国民のために存在すべきであり、国民の生活を保障すべきである」と。そして、「非日本人」を差別したり「日本的でないもの」を排除したりするような〈アイデンティティとしてのナショナリズム〉を明確に批判する。つまり、ここで肯定されているのは〈国家を縛る原理としてのナショナリズム〉である。

〈国家を縛る原理としてのナショナリズム〉とは、すなわち「国家=暴力を私たち国民のものとして捉え、それをコントロールする運動」である。もしかすると、これは「国民主権」という概念とも近いのかも知れない。



(4)

インテリにありがちなナショナリズム批判として、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」という概念――国民同士が顔見知りでもない近代国家などは「想像の産物に過ぎない」というもの――がある。これに対して著者は、アンダーソンが「想像の共同体」を「直接顔を合わせられる人間関係の範囲を超えたあらゆる共同体」に対して用いていることに着目し、ナショナリズムと対置されやすいインターナショナリズムこそ、実は国民国家よりもさらに抽象度の高い「想像の共同体」なのではないかと指摘している。すなわち、国民国家を「想像の共同体」だと批判しておきながらインターナショナリズムを志向するのは、論理的矛盾なしにはできないことだろうというわけだ。

また、ナショナリズムはファシズムと関連付けられて論じられることも多いが、国民国家は必ずしもファシズムに向かうわけではないという。例えばドゥルーズとガタリによれば、国民国家をファシズムに向かわせる最大の要因は、国内市場の衰退という歴史的状況と、国外市場の拡大を重視することで逆にその国内市場の衰退を放置したり加速させたりしてしまうような経済政策にある。つまり、労働市場のグローバル化を通じた国内経済の崩壊によって、ナショナリズムは排外主義へと向かってしまうというわけだ。そうした事態を防ぐため、ナショナリズムの中にとどまってナショナリズムそのものを書き換えていく作業が必要であるというのが、著者の主張である。



(5)

著者によれば、ナショナリズムを否定することは、本来逃れることができないはずの暴力の問題から目を背けることを意味する。

国民国家がなくなったからといって、私たちが暴力の問題から自由になることはありえない……私たちは暴力の問題から逃れることができない以上、問われるべきは統治の暴力を自分たちでコントロールできるかどうかということになる。


「ナショナリズムを超えてコスモポリタニズムへ」といったポストモダン的な主張も悪くはないと思うが、「もう一度、議論の出発点をナショナリズムに」ということもあっていいのかも知れない。「国家という現実の暴力」をコントロールし、「国民のための国家」を実現するために、私たちは「国民主権というフィクション」を共有し活用すべきなのではないだろうか。





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自然は無限ではなく、劣化する有限なものである。

『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』
▲中村修『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』


(1)

著者によれば、自然は劣化する有限なものであるにもかかわらず、従来の経済学は、自然を劣化しない無限なものとして扱い、無限に経済成長を続けるという前提を置いてきた。つまり従来の経済学は、人間の生存基盤にかかわる前提を誤って設定してきた、というわけである。

このような近代経済学やマルクス経済学といった近代由来の経済学の根底には、ニュートン力学のモデルがある。それ故に「永遠の時間と均質な空間」が前提とされ、それこそが「無限の自然」という無意識を作り出しているという。

従って、すべての経済学は「自然は劣化する有限なものである」という前提を明確に設定し、そこから物質循環を維持できるような基本原理を持つべきだ、というのが本書の結論である。そして、経済活動は自然に制約されざるを得ないという意味で、「農学」のような学問の在り方こそが持続可能な社会の方向を指し示している、とする。



(2)

そんな著者であるが、環境問題に対する批判には厳しいものがある。「環境に配慮した施策もやってますよ」とか「外部不経済のものを少しは内部化しましたよ」といった程度の話では済まない、というわけだ。

自然問題への現実的アプローチにおいて、地域性や個々の経済学者の認識・価値観が多様なため、内部化の作業は地域性・価値観に委ねられ、無原則とならざるをえない。


物質循環の確保という基本原理に則れば、気まぐれで手ぬるい「環境にやさしい施策」などというものは屁の突っ張りにもならないというのである。



(3)

著者の唱える物質循環を確保するための厳しさを示すものとして、石油価格の設定を見てみよう。

もし、基本原理がなければ石油価格は経済学者の価値観・各国の政治経済状況に応じて無原則に論じられ、科学的客観性を失った場当たり的議論に陥ってしまう。


著者はまず、炭酸ガスの増加をもたらさない薪燃料を想定する。その上で、物質循環を確保するために、化石燃料であるガソリンから再生可能な資源である薪への転換という政策が実施されなければならないとすれば、ガソリンは1リットル当たり1000円以上になるという。

しかしながら、私たち一般市民が「ガソリンの価格が高くて困りますよね」と言って共感し合っている現状において、「持続可能な社会にするために、ガソリンはリットル1000円にすべきですよね」などと話すことができるだろうか。少なくとも、そんなことを唱える政治家は選挙で当選しないだろう。私たち一般市民にとっては、モノやサービスは安ければ安いほどよい――ツケを先送りにすればするほどよい。たとえそれが将来に破滅をもたらすことが分かっていても、“いま・ここ”の幸せを求めるのが心情というものだからだ。

では、こうした著者の提起は一蹴されてよいのだろうか。いや、それは違う。この提起は、「その社会的な支持あるいは合意をいかにして調達するのか」といった議論へと展開される必要があるだろう。それ故に、この問題は重いのである。



   私の提案は値上げです!!





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「消費者/投資家としての私たち」から「市民としての私たち」へ

『暴走する資本主義』
▲ロバート・ライシュ(雨宮寛、今井章子・訳)『暴走する資本主義』


(1)

現在、日本社会には閉塞感が漂っている。それを読み解くキーワードの1つは、「自己責任」であろう。すなわち、私たちの人生における成功も失敗も、「それぞれの個人が様々な選択肢の中から自ら選び取った結果である」と見なされるようになってきている。

例えば、精神医療の流行と蔓延は、それを端的に証明するものである。現代社会において、およそ考えられるありとあらゆる問題は、それぞれの個人が「個人的に解決すべき」なのであって、問題の原因を個人の外部に求めて「社会的な解決」を図ることは許されない、ということだ。

では、仮に私たちが閉塞感を抱えているとすれば、それは自己責任の結果なのだろうか。ロバート・ライシュは、その主な原因を自己責任にではなく、グローバルな市場主義――「超資本主義」という公共の問題に求めている。



(2)

さてライシュは、戦後のアメリカ社会を大きく変質させた新しい経済秩序を捉えて、それを「超資本主義」と名付けている。「超資本主義」に関するライシュの議論は、次のようなものである。

一部の大企業が規模の経済を活かして寡占状態を維持しつつ、様々な利害を調整することによって、私たちの「市民」としての生活をも向上させてくれていた時代は1970年代に終わった。それ以降、アメリカにおける資本主義の在り方は構造的に変質した。すなわち「超資本主義」の時代においては、技術革新・グローバル化・規制緩和などの結果として、「消費者」と「投資家」の利益のみを追求する企業群が登場し、地域社会の解体・自然環境の破壊・途上国における人権侵害・大きな所得格差などといった弊害が生み出されることになった。

別の言い方をすれば、「超資本主義」は私たちの「消費者」と「投資家」としての側面によって生み出された経済秩序であるにもかかわらず、まさにそうした経済秩序そのものによって、「民主主義」に基づいて行動するような私たちの「市民」としての生活が脅かされるようになってしまった。

つまり、グローバルに活動する多国籍企業群が、「消費者」を満足させるために多様な商品を安く提供し、「投資家」を満足させるために短期的な企業利益の確保を目指すことによって、「超資本主義」という経済秩序が成立した。そしてこの「超資本主義」が、不安定な雇用体制を多くの企業に採用させると共に、国内外における人々の経済的な格差を拡大させているというわけだ。



(3)

「超資本主義」によって生み出される経済的な格差は、私たちの人生における選択の幅を左右する。例えば、効果的に自分を売り込み、仕事を成功させることができれば、魅力的で安全なコミュニティに暮らすことができるだろう。一方で、お金を稼ぐことに成功しなければ、荒廃して危険なコミュニティで暮らさざるを得ないことになる。そして、仮に後者のように自分が望むような選択を行えないような状況に陥ったとき、それは「あなたが一生懸命に働かない状態を選び取った結果である」と見なされるようになる。なぜなら、「消費者」「投資家」という経済的な価値観から社会を眺める限りにおいて、あらゆる選択を個人に帰する自己責任論に、私たちは絡め取られてしまうことになるからだ。

従って、それぞれの個人が置かれている望ましくない状況(=閉塞感)を、公共の問題として認識していくためには、これとは別の見方をする必要がある。ライシュによれば、それは「民主主義」という制度を通じて社会をより良い方向に変えていくという、「市民」としての視点である。



(4)

しかしながら、「市民」としての私たちの声は、企業社会の中でかき消されてしまっている。そこでライシュは、「市民」の声を政治に反映させるために、「民主主義に参加する資格を持つのは個人だけである」という原則を確認する。そして、企業の力を削いで個人の力を伸ばすための対策――具体的には、法人税を廃止して、それを株主が個人所得として支払うようにするといった政策などを提言している。

私たちの欲望――「より安くて、より質の良いモノやサービスを手に入れたい」「よりたくさん儲けたい」といった“幸福”よりも“発展や成長”を重視する価値観――によって生み出された「超資本主義」は、私たちを「消費者/投資家」と「市民」とに分断する。ライシュは、現代社会における閉塞感を打破するためには、「消費者としての私たち」「投資家としての私たち」の利益が損なわれることになろうとも、私たちは「市民」として資本主義のルールそのものにメスを入れる決断をする必要性があることを説いている。



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 → なぜ、日本では「市民」が育たなかったのか。





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レーニン論の(反)時代性――「奪回されるべきレーニン」とは何か

『迫り来る革命――レーニンを繰り返す』
▲スラヴォイ・ジジェク(長原豊・訳)『迫り来る革命――レーニンを繰り返す』


(1)

1914年の第一次世界大戦の勃発に際して、第二インターナショナル諸党の多くは愛国主義に傾き、祖国擁護つまり自国の戦争に賛成していった。これは第二インターナショナルの崩壊に他ならず、レーニンは絶望の淵に立たされた。しかし、「こうした絶望の時を凌ぎ、ヘーゲル『大論理学』の精読をつうじて一回限りの革命的好機を感じとることができたレーニン」は、1917年に十月革命を成し遂げることとなる。

ジジェクは、「確かなことは、現代の左派が、進歩的運動が無傷でいられた時代の終焉といった強烈な経験、みずからのプロジェクトの基本的座標軸を発案しなおすことを強いるそうした経験を一身に引き受けている、という点だ。しかし、そうした今日の経験こそ、レーニン主義を生み出したあの時代の経験と酷似している」と述べ、言わば「絶望的な閉塞とそこからの希望への転回」というレーニン的状況を、現代の左派が置かれている状況に重ね合わせる。



(2)

さて、ジジェクによれば、現状における左派にとっての可能な選択肢は次のようである。

1〉労働者本隊論的なマルクス=レーニン主義
2〉「<文化戦争>を解放政治の主要領野として導入したフェミニスト、ゲイ、反レイシストなど」といった文化左翼
3〉福祉国家の達成物を擁護するといった退却戦
4〉「降伏文書それ自体である<第三の道>」

しかし、これらの選択肢はいずれも現実的な反資本主義思想にはなり得ないという点において、ロクなものではない。従って、左派に残された選択肢は以下のものしかない、と言う。

5〉「レーニンの反復」



(3)

では、「レーニンの反復」とは何か。本書から引用してみよう。

「レーニン」は古い教条的確実性への郷愁に充ちた別名ではない。それとはまったく正反対に、奪回されるべきレーニンは、その基本的経験が旧い座標軸に役立たないことが明らかとなった崩壊的な新たな配置図へと放り出されることによって、マルクス主義を発案しなおすことを迫られるレーニンを指している。

レーニンを反復するとは、「レーニンが死んだ」ことを受け容れることである。彼固有の解決策は失敗した、あるいは恐ろしい形で失敗したことを受け容れることである。だがそれはまた、そこにやり直すに値するユートピア的火花が存在したことを受け容れることでもある。レーニンを反復するとは、レーニンが実際におこなったことと彼がその可能性を拓いた領域とを区別し、彼が実際におこなったことと他の次元との緊張のレーニンにおける区別を明らかにすることであり、それは「レーニンにおけるレーニン自身を越え出るものとは何か」を問うことである。レーニンを反復するとは、レーニンが以前やったことを繰り返すことではなく、彼が以前やることに失敗したこと、彼が失った好機を繰り返すことである。


……、なるほど。辛うじて意義を理解することはできた。しかし、ジジェクのレーニン論(本書だけでなく、他の諸著作も含む)は得も言われぬ示唆に富んでいるものの、それは常に具体性を欠いている。



(4)

「レーニンを繰り返す」とは、いかなることであるのか。「奪回されるべきレーニン」とは、具体的には何なのか。それは、私たち一般市民には分かるはずもない。こうしたジジェクの呼びかけに対して、今こそエリートが真摯に応答するべきではないだろうか。





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俺たちのヴィーコ――その“頭の悪さ”

『学問の方法』
 ▲ジャンバッティスタ・ヴィーコ(上村忠男、佐々木力・訳)『学問の方法』


(1)

イタリアの思想家であるジャンバッティスタ・ヴィーコは、「歴史に名前が残っている思想家の中で最も頭が悪い」とされることがある。では、それは一体なぜだろうか。本書『学問の方法』から、ヴィーコについて検討することにしたい。

さて『学問の方法』は、1708年にナポリ大学で行われたヴィーコによる講演「我らの時代の学問方法について」の記録である。

ヴィーコは、個別的な知識や学問的成果については、現在(1708年当時)は古代(ギリシア・ローマ時代)よりも優れているとする一方で、「学問方法においてわれわれのものと古代人のもの、いずれがより正しくより良いのであろうか」という問いを立てる。そして、「古代人の知」と比較して、現在の「緻密な論理展開を要求するデカルト的な演繹知」や「再現性のある実験による実証を要求するベーコン的な帰納知」に問題があることを指摘し、そうした〈学問の方法〉については見直しが必要である、と唱える。



(2)

『学問の方法』の中でヴィーコは、現在の〈学問の方法〉の様々な問題点を明確化し、それらに対して解決策を与えていく。ここでは、1つだけ具体的な内容に立ち入ってみることにする。

――論理的に正しい展開(「緻密な論理展開を要求するデカルト的な演繹知」)のみに執着すると、前提の議論が疎かになる。古代の自然学――哲学的な自然学は、常に現実と対応しているかをチェックし、多様な根拠を求めながら結論を出していた。しかし、現在の自然学――数学的な自然学は、一度数学的な理論展開に入ると、最後まで数学の世界のみで結論を出す。このような前提=形式的な正しさを疑うことなく、緻密な論理展開のみを信じるという一本線の思考形態は問題である。なぜなら、論理の厳密さを追求するあまり、類推を拒否してしまうからだ。類推の拒否は、問題に対する柔軟性や説明能力を欠如させる。類推することは、細部における違いを生じさせてしまう恐れがあるものの、発想を豊かにし、説明を上手にさせるという点で優れているのである。



(3)

他にも、ヴィーコは様々なことを唱えている。推論における記号的・統計的な処理のみでの結論(「再現性のある実験による実証を要求するベーコン的な帰納知」)、すなわち、シミュレーション結果を無条件に信じることへの疑いや、また、説得というものを重視した。説得には、「哲学」――頭への働きかけと、「雄弁」――心を動揺させるという2つの側面がある。すなわち、真の論拠を示すと共に、感情・欲望・共通感覚といったものに訴えなければ、人を説得することはできないということだ。

このようなヴィーコの唱える〈学問の方法〉のエッセンスは、(ⅰ)ある論点を、様々な方向・視点から柔軟に検討することができること、(ⅱ)投げかけれた疑問に対して、即答することができること、(ⅲ)誰にでも分かりやすく、説得的に伝えることができること、という3点にまとめられるかも知れない。



(4)

ヴィーコの主張した“知の在り方”は、論理的厳密性や客観的実証性を担保する方法論にこだわり、重要なことをいつまで経っても何も説明しない/できないインテリたちへの異議申し立てでもある。それこそが、ヴィーコが「歴史に名前が残っている思想家の中で最も頭が悪い」とされる原因の1つなのであろう。

これは、ヴィーコが近代ヨーロッパの知の辺境・ナポリ大学の、それも専門学部ではない教養課程の教員だったこととも無縁ではないのかも知れない。それはともかく、一般市民である私たちにとっては、こうしたヴィーコの“頭の悪さ”こそを高く評価せずにはいられないのではないだろうか。



  ▼脳を鍛える大人のビーコントレーニング――『グラディウスⅤ』7面の中ボス
  





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生き方としてのスモールハウス――「経済からの自由」を考える

『スモールハウス――3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方』
▲高村友也『スモールハウス――3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方』


(1)“理論の書”としての『スモールハウス』

著者は、とりわけネット上では“毎年寝太郎”として知られる人物である。本書『スモールハウス――3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方』は、そんな寝太郎さんの『Bライフ――10万円で家を建てて生活する』に続く2冊目の著書だ。

ちなみに、2冊をあえて比較するならば、『Bライフ』がどちらかと言えば“実践の書”であったのに対して、今回の『スモールハウス』は“理論の書”であると言えるだろう。実際、「本書は、実践的なノウハウを記述した本ではないし、僕個人の観点・解釈も色濃く出てくる。半分はドキュメント、半分は僕のエッセイ」とあるように、海外における「スモールハウス=3坪ほどの小さな家」での生活の実践者6人を紹介しながら、スモールハウスの在り方やそこから得られる生き方について、寝太郎さん自身の思想や考え方が前著に比べてより多く著されている。



(2)「スモールハウス生活の実践者」の多様性

さて、「スモールハウス」とは比較的間口の広い議論であり、「スモールハウス生活の実践者」と一口に言っても、その動機も在り方も実は千差万別であることが分かる。

例えば、「自身の美の追求」という観点からスモールハウスで暮らしている人もいれば、スモールハウスでの生活が「モノを所有せずに外部のサービスに頼って生きる」といった、いわゆるノマドライフという在り方に近い人もいる。さらには、「自給自足」ないしは「半農半X」という観点からスモールハウスで暮らしている人もいるし、「地球環境保護」という観点から、悪者を探して糾弾したり要求したりするのではなく、身も蓋もなく“その答え”としてスモールハウス生活を実践している人もいる。



(3)「空回り経済」は人を幸せにしない

そして本書では、以上のような実践者の紹介を通じて、寝太郎さんの思想や考え方を垣間見ることができる。それを理解するためのキーワードは、「空回り経済」である。

「空回り経済」とは、「わざわざ需要と供給を作り出す、自分で自分の首を絞めるような経済」のことであり、「贅沢なモノ=不必要なモノによって回る経済」だとも言える。寝太郎さんによれば、「空回り経済」は人を幸せにすることはない。なぜなら、「世の中いくら便利になっても、それによって節約された時間や体力は、再び競争と労働へと費やされ(る)」という明察からもうかがえるように、それは欲望や嫉妬心、労働時間を増幅させるだけだからだ。

そこで寝太郎さんは、現行の「空回り経済」から距離を置き、自由を獲得することを唱える。そしてそれは、「生きていくための最低限の生活が何であるのかを見極め、少ないお金で生きていけるように工夫すること」で成就されるとし、これを「経済からの自由」と表現している。

また「空回り経済」は、ただ物質的な豊かさを追求するように人の心をコントロールしさえする、という点においても問題である。しかし、それからある程度自由であれば、「生きる意味」という問いに遭遇することになる。寝太郎さんがしばしば口にする「私的な生きづらさ(生きにくさ)」とは、こういったことなのだろうか。その際、自我の保持や心の平穏のためには、スモールハウスのような内的に安心できる空間が最適なのだという。



(4)「高消費かつ自由経済のエアポケット」は時機になくなってしまう?

もっとも、寝太郎さんの議論でやや不安を感じる点もある。例えば、寝太郎さんは「高消費かつ自由経済の日本に生まれてよかった」と述べているが、それは、彼の唱える「Bライフ」=「生活水準を少しだけ下げて、ホームレスより僅かに上、一般市民より遥かに下の、極めてコストのかからない生活」(寝太郎さんのHP「Bライフ研究所」より)が成り立つための条件だからである。このBライフこそが、本書で言うところの「経済から自由」を意味している。

「Bライフ」=「経済からの自由」は、資本主義社会の搾取対象から逃れ、その恩恵のみを受け取るという意味において、非常に賢いライフ・スタイルであると言える。しかし、それができるのは「南北格差」のおかげでもある。翻って、これからの日本はますます経済的な国際競争力を落とし、外貨を稼ぐことができなくなる可能性が高い。そうなれば、途上国から価値を収奪することも難しくなり、「豊かな日本」自体が成り立たなくなるだろう(※1)。すなわち、Bライフの肝は「豊かな国・時代であえて低い生活水準を保つことで、周囲との間に局所的な貨幣価値の格差を生み出す」(寝太郎さんの前著『Bライフ』より)ことにあるわけだが、その前提である「豊かな日本」自体が崩壊してしまう恐れが十分にあるのではないかということだ。



(5)ローカルユートピアの実現――「経済からの自由」の2つの側面

ただし、寝太郎さんは次のようなことも述べている。

人口の何割かの成人後の最初の目的が、まずスモールハウスを建てて、自給用の10坪の畑を耕すということであっても、おかしくはないはずだ……それと同時に、多少の現金収入を得たり、既存のインフラや物流の恩恵を受けたりすれば、かなり効率の良い生活ができる。


そして、こういった生活の在り方を「資本主義の成熟した豊かな国家における自分の周りだけの局所的なユートピア」という意味で、ローカルユートピアと呼んでいる。しかし、生きていくための必要最低限なモノである「食料」がある程度自給できれば、そこまで豊かな国家の下になくとも、ローカルユートピアを実現することはできるのではないだろうか。

「経済からの自由」には、「高消費かつ自由経済へのフリーライド」という側面と、「生活における市場への依存度を減らす」という側面がある。両者は相反しながら相互に支え合っているのが現状であるが、これからの日本の経済状況を鑑みた場合、後者の割合を高める方向性で「経済からの自由」を追求するのが、よりベターであるような気がする(※2)。

……と、本書を読めば、そんなことを色々と考えさせられてしまう。従って、(例えば私のように)本書を「建築物としてのスモールハウス」の本だと思っていたのならば、良くも悪くも裏切られるだろう。なぜなら、本書の主題はあくまでも「生き方としてのスモールハウス」なのだから(※3)。



(※1)ただし、これは国際競争力が維持されている他の先進国に移住すれば大丈夫という問題ではある。
(※2)これは杞憂であるが、「あらゆる公共サービスが完全な受益者負担になる」「人頭税的な税制が導入される」「農地以外での食料生産が禁止される」などといった政策によって、将来的には資本主義社会のフリーライダーが淘汰される可能性もある。
(※3)「建築物としてのスモールハウス」という側面がないわけではない、ということはフォローしておきます!



●関連記事
 → なぜ私たちは、毎年寝太郎さんの「Bライフ」という生き方に引き寄せられるのか。
 → 「自給自足2.0」に基づく新貴族主義というライフ・スタイル ―― 半農半活動とは
 → <自身の仕事>を拡大させよう――「新貴族主義というライフ・スタイル」の正当性





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<自身の仕事>を拡大させよう――「新貴族主義というライフ・スタイル」の正当性

『未来の仕事』
▲ジェイムズ・ロバートソン(小池和子・訳)『未来の仕事』


(1)

私・ばたおは「新貴族主義というライフ・スタイル」を提唱しているわけであるが、ジェイムズ・ロバートソンの『未来の仕事』(原著の出版は1985年)において、それと極めて近い主張がなされている(と解釈した)ので、ぜひ紹介することにしたい。



(2)

「社会保険を中心とし、その補足としての生活保護」というのが、既存の先進国における所得保障の仕組みである。そして、そうした“福祉国家”という在り方は「完全雇用」を理想状態として成り立っている。

しかしロバートソンによれば、完全雇用の追求といった主張は「ユートピアンの希望的観測」であり、また「かなりの経済成長がいつかはかえってくるとしても、その多くが職なしの成長にな(るだろう)」と言う。そうした認識の下で、仕事を雇用と同一視し、雇用を通じて所得を得ることを当然視する考え方に異議を唱え、雇用と所得保障の分離の必要性――ベーシック・インカムの導入が不可避であると述べる。



(3)

加えてロバートソンは、そもそも「雇用」は仕事の在り方として限界を抱えている、と言う。彼によれば「雇用としての仕事」「雇用中心のシステム」は、(1)家庭と仕事を乖離させる、(2)雇用されていない者(失業者、主婦、子供など)に劣等感を持たせる、(3)分業化と専門化の進展によって、「ローカルな仕事が、ますますどこか他所でなされる決定にコントロールされる」ようになる、などといった点において批判される。

その上でロバートソンが提唱するのが、<自身の仕事>という労働観である。

<自身の仕事>は、目的のある重要な活動、そして人びとが自分自身で組織しコントロールする活動を意味する。

個人と世帯にとっては、自身の仕事は、自己雇用、世帯と家族に必要不可欠な活動、ドゥ・イット・ユアセルフとか自分自身の食糧の一部を育てるとかいった生産的な余暇活動、そしてヴォランタリーな仕事への参加を意味するだろう。

地域にとっては、自身の仕事の重要性は、それが、ローカルな自立と、ローカルな仕事によってローカルな必要をみたすローカルな能力の増大と、外部の雇用者や供給者への依存の減少に貢献することにある。


これはまさしく、「新貴族主義というライフ・スタイル」とかなりの部分において一致している、と言ってもいいのではないだろうか。



(4)

そして、<自身の仕事>は「外部の雇用者や供給者への依存の減少に貢献する」というロバートソンの明察は、「新貴族主義というライフ・スタイル」の正当性を裏付けるものともなっている。どういうことだろうか。

単にベーシック・インカムを導入するだけでは、(1)雇用されている者と雇用されていない者との分断、(2)市場での消費を中心とした生活は変わらない。前者は、雇用されていない者に劣等感を抱かせ続ける点で望ましくないばかりか、雇用されている者にベーシック・インカムの財政負担への不満を募らせることにもなる。これは後者とも相まって、ベーシック・インカムの持続可能性を低めることに繋がる。

対して、<自身の仕事>を拡大させようという方向性は、(1)「労働=雇用」という価値観の下での労働者/非労働者という分断を解消し、(2)生活に占める市場での消費の割合を減らすことで、ベーシック・インカムの持続可能性を高めることができるからである。



(5)

ロバートソンに従えば、「新貴族主義というライフ・スタイル」は、市場に依存した生活から<自身の仕事>を拡大させることである。そしてそれは、ベーシック・インカムとも親和性が高いのである。

自身の仕事の拡大のみが、雇用と余暇の問題を満足に解決する条件をつくりだすだろう。自身の仕事の拡大のみが、いまはじまった脱産業の未来への移行の底に横たわる、価値観のシフトを反映するだろう。



●関連記事
 → 「自給自足2.0」に基づく新貴族主義というライフ・スタイル ―― 半農半活動とは
 → ベーシック・インカム概説(追記・2013/2/24)




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