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リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(7)最終回

最後に、ちょっと橋下批判をしてみた。

(1)橋下徹の「価値中立」的な態度

橋下徹さんは、「透明なシステム」「決定できる民主主義」「最後は住民自身が責任を持って決定する」などと述べ、政治におけるルール作りに取り組むことを強調している。つまり、「社会を自分たちの作ったルール通りにきちんと動くように変えよう」としているのである。そして、「目指すべき価値観は住民によって決定される」「イデオロギーは最後の問題になる」などと述べ、これこそが「新しい政治のスタイル」なのだと主張している。すなわち、橋下さんは「価値中立」を謳っているのである。

そんな橋下さんの「価値中立」的な態度に対し、反橋下派の一部は「ホントは違うんじゃね?」と感じて批判している。しかしその際、彼を「改憲論者」「核武装論者」だと批判しても、それは糠に釘だろう。

ここで有用となるのは、「君が代問題」である。君が代については、様々な価値観を持った人が存在する。思想・信条の自由を重視するならば、そうした多様な価値観は認められるべきだ。翻って、橋下さんの唱える「新しい政治のスタイル」では、価値観は住民によって決定される。イデオロギーの問題は、システムを住民自身の決定によって変えていった最後に出てくるという話である。つまり「君が代問題」は、本来的に「最後の問題」とならなければならないはずなのだ。にもかかわらず、君が代に関して「既にルールがあるのだから、それを守らない奴はダメポ」だとする橋下さんの主張は、自身のそれと矛盾するところがあるとは言えないだろうか。




(2)「左翼だから」

そもそも橋下さんは、「人間・橋下徹」としてはある種のイデオロギーを持っているが、「政治家・橋下徹」としてはあくまでも「価値中立!」であるという趣旨のことを明言している。そんな相手に、様々な根拠を並べ立てて批判を展開したところで、それは「価値中立(キリッ」というマジックワードによって、あたかもドラえもんのひらりマントのごとくスルリとかわされてしまう。

こういった際に有効なのは、上記のような自身も「価値中立」を装うか、あるいは、逆に自らの立場を明確にするか、という戦略である。以下は、ニコニコ生放送における大塚英志さんと宮台真司さんの対談の一場面である。


●ニコニコ生放送「ニコ生トークセッション」(2012/1/30放送分「愚民社会」)より

宮台真司
――かなりの人たちが橋下現象に期待をしてるのね。それはどういうことかと言うと、橋下さんがポジティブな存在だということよりも、橋下を批判している人たち、あるいは「従来橋下的ではなかった議会や地域の首長たちは一体何をやってきたんだ」という深い失望があって。簡単に言えば、「こちらはクソだ」って分かっている。でも、橋下は未規定だと。もしかしたら大クソかも知れないけど、クソだって分かっているものを選ぶよりは未規定のものを選んだ方が良いと思っているわけですよ。

大塚英志
――そのギャンブルは怖いですねぇ。

宮台真司
――はい(笑)。

大塚英志
――僕は左翼だから、君が代とか日の丸を強制するっていう段階で、もう嫌だもの(笑)。



大塚さんは、身も蓋もなく「左翼だから君が代の強制は嫌だ(笑)」と述べている。こうした態度は、「君が代の強制は普遍的に誤りである」「君が代の強制に反対することは絶対的に正しい」といった感じの主張とは一線を画しており、非常に誠意のあるものであり、その点において説得力のある主張だと言えるだろう。




(3)政治の世界

橋下さんの武器の1つに、巧みな交渉術がある。では、橋下さんの交渉術とは一体どのようなものだろうか。以下に列挙してみた。

  ・「譲歩の演出によって、相手に仮装の利益を与える」
  ・「一度OKしたことを撤回する」
  ・「あり得ない比喩表現やたとえ話で、論点をすり替える」
  ・「相手にレッテルを貼り、それを批判する」
  ・「不毛な議論をふっかける」


橋下さんは『図説・心理戦で絶対負けない交渉術』において、上記の一部の交渉術について解説をしているので、それを見てみたいと思う。

●「譲歩の演出によって、相手に仮装の利益を与える」――6~12ページより

交渉において相手を思い通りに動かし、説得していくには、はっきり言って三通りの方法しかない。 “合法的に脅す”“利益を与える”“ひたすらお願いする”の三つだ。そのなかで、最も有効なのは“利益を与える”ことである。 この場合の利益には二通りある。一つは文字通り相手方の利益。もう一つは、実際には存在しないレトリックによる利益だ。不利益の回避によって感じさせる“実在しない利益”とも言える。

相手方に利益を与えるということはこちらの譲歩を示すということだ。譲歩とそれに伴う苦労は、徹底的に強調し、演出すべきだ。譲歩とはよべない些細なことであっても、さも大きな譲歩であるように仕立て上げるのである。そうすることで、相手方の得る利益が大きいものであると錯覚させることができるからだ。

物々交換の基本にのっとって、自分の主張を絞り込んでいく。どうしても通したい主張と、譲歩できる主張を明確に区別する必要がある。できることならこの主張も通したい、交渉の流れのなかで判断しよう、そんなグレーゾーンを持ったままで交渉に臨むことだけは避けたい。それが交渉をこじらせ、長期化させる原因にもなるのだ。


●「一度OKしたことを撤回する」――32~34ページより

交渉において非常に重要なのが、こちらが一度はオーケーした内容を、ノーとひっくり返していく過程ではないだろうか。まさに、詭弁を弄してでも黒いものを白いと言わせる技術である。“ずるいやり方”とお思いになるかもしれないが、実際の交渉現場ではかなりの威力を発揮するのだ……一度なされた約束ごとを覆す方法論は、交渉の流れを優位に運ぶ重要なものだと考えている。

具体的には自分の言ったことに前提条件を無理やり付けるのである……前提条件は、相手がその時点で満たしていないもの、満たしようがないものをわざとつくる。いわば仮装の条件である。満たされないような条件をわざと付け、今、満たされていないのだから、一応オーケーしたことでもこちらは約束を果たせないという論法で逃げる……前提条件を無理やりつくるという他に、オーケーした意味内容を狭めるという方法もある。



このような交渉術を操る橋下さんを反橋下派の一部は批判しているが、そうした批判は的外れなものであろう。なぜなら、橋下さんの立っているところは政治の世界であって、学問の世界ではないからだ。彼の交渉術を批判する暇があれば、その交渉術の体得に努めた方がいいのかも知れない。

私は、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかとは関係なく、反橋下派は、橋下さんと同じ土俵――政治の論理・政治のルールに則って勝負するしかないのだと思う。しかし、そこは血なまぐさくて身も蓋もない世界である。知的誠実さだけでは、学問的にしか勝利できない。本気で政治的に橋下さんに勝利したければ、もっとディベート技術や狡猾さを身に付けなければならないのではないだろうか。


『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』  『図説・心理戦で絶対負けない交渉術』




【参考】大塚英志の嫌み

●ニコニコ生放送「ニコ生トークセッション」(2012/1/30放送分「愚民社会」)より

大塚英志
――だって、大阪の人がいいって言うんだから、いいわけでしょ。そんで、東京の人が「橋下と石原(東京都知事)がくっついていい」って言うんだったら、それでいいじゃん。ほっとけばもう。神戸と行ったり来たりしてるんで、たまに大阪で降りて、難波の「自由軒」とかでカレーを食ったりするんですけども。そうするとやっぱり、「地元のおばちゃんたちは橋下好きなんだなぁ」ってしみじみ感じるんですよ。テレビ見ながら石原新党とかニュースでやってると、「ほら石原さんまで橋下さんに擦り寄ってきたわ」とか嬉しそうに言って。その悪気のなさを見たときに、何かもう言う気もなくなっちゃってね。

1つ、橋下市長をめぐって面白かったなと思ったのは、選挙の時に『新潮』がすごいネガティブ・キャンペーンをやりましたよね。「やれ橋下氏」と。それから「親族にヤクザがいる」とか、あるいは「被差別部落のエリアで彼が育った」とかね。そういったネガティブ・キャンペーンをやって。これ、『新潮』の得意技ですよね。こういうネガティブ・キャンペーンを持っていくと、だいたいそこで、それこそ「愚民」だの「土人」でもなんでもいいんだけども、やっぱそこであっさり先導(煽動?)されてきたわけじゃないですか。『新潮』は、やっぱりそういうふうに大衆を先導することに関してもお家芸だったわけだけども、その『新潮』が先導できなくなって、逆に反撃くらったみたいなね。そこで、僕はすごく他人事のように面白かったですね。『新潮』が先導してきた人が、もう先導しきれないんだ。それがネットの世論じゃなくて、大阪のおばちゃんたちをもう先導できないんだと思うと、そこがすごく面白かった。

(中略)

ただ、「愚民社会」の趣旨に引きつけて言えば、橋下市長が200人だか400人だか、広報と言うのか分からないけども、その人たちの質が問題になっていくわけでしょう? 結局、それこそ「愚民」が立つわけで。「それでいいわけ?」っていうとこだけは、嫌みとして言っておきたいと思うわけです。



(リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感、おわり)






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リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(6)

※リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(2)からのつづき

(3)討論による勝ち負け

こうした問題は、テレビなどの公開討論の場で勝ち負けを競うような性質のものではないのではないでしょうか。意見の違いが、ディベート技術の競い合いで発展的なものにつながると思えないからです……仮にその場のディベート技術で橋下さんに言い負かされた形になったとしても、今後の政策や言動を見て行く中で、「おかしい」と思うことは「おかしい」と言うと思います。


この香山リカさんの主張は、2つに分解することができる。

まず1つ目は、「こうした問題は勝ち負けを競うような性質のものではない」「ディベート技術の競い合いでは発展的なものにはつながらない」という指摘である。こうした主張は、確かにそう言えるのかも知れない。

問題は2つ目である。全体としての文脈から察するに、香山さんには「討論=ディベート技術の競い合い」という発想があるような気がする。しかし、これは論理の飛躍ではないだろうか。仮に香山さんが橋下徹さんに「ディベート技術のみで言い負かされた」となれば、それは生産的な議論をしていない橋下さんに非があることになるはずであり、あとは聴衆が「橋下は弁舌だけで中身がない。テラワロス」と身も蓋もなく判断すればいいだけの話になるのではないだろうか。

細かなことを言うようで申し訳ないのだが、香山さんが「討論=ディベート技術の競い合い」と短絡することにはやや疑問符が付く。ただしリーダーたる者、多少のディベート技術というのは、それはそれで必要な気もしないではない。もちろん、極端に弁舌だけというのは論外であるが。




(4)「余裕」と「ムダ」

何よりもまず、「リダンダンシー」というジャーゴンを使っている時点でダメポである。まぁ「冗長性」という日本語訳も、よく分からないと言えばよく分からないような気もするが……。

では、「リダンダンシー=冗長性」とは何か。香山さんによると、それは「必要最低限のものだけでなく、ある程度の余地や重複がある状態」にしておくこと、つまり「余裕をつくっておくこと」という意味だろう。なるほど! そう言われてみれば、確かに「冗長性=余裕」は必要な気がする。しかし、やはり大阪には「余裕」がほとんどないのが現状なのであって、少なくとも「ムダ」は省かれなければならない。

「余裕」と「ムダ」――。これを区別することは、非常に困難な作業であろう。というか、政治的な決断が要求される。だからこそ、これは真剣に議論されなければならない問題であるような気がする。


(つづく)





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リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(5)

反橋下派は「ハシズム」という問題意識を概念操作して反橋下理論を組み換えた上で、橋下さんを論破する必要があるのではないだろうか。

件の『朝生』を受けて、田原総一朗さんは「なぜ有識者は橋下市長に議論で負けるのか(1)(2)(3)(4)(5)(6)」という文章を発表した。これが示唆的なものであったので、紹介したいと思う。


周知の通り、田原さんの司会には酷いものがある。しかし、今回に限っては彼の司会がなければ、もしかすると反橋下派は橋下市長に完膚なきまでに粉砕されていた可能性があった。それはともかくとして、この文章における田原さんの問題設定は以下のようなものである。

橋下徹大阪市長を大阪のスタジオに迎え、1月29日深夜に『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)を行った。橋下さんが目指す大阪とは何か、大阪都構想にはどんな問題があるかなどについて、6人の有識者に鋭く切り込んでもらうのが番組の狙いだった……(しかし、)橋下さんに批判的な多くの文化人や学者は議論すると負けてしまう。なぜだろうか。私は番組を通じてこのことを考えてみた。


こうした問題意識は、当該連載における問題意識と通じるところがある。

さておき、それに対する田原さんの答えは、次のような2つになるだろう。すなわち、「対案がない」「決断できない」ということだ。


●対案がない

討論の際、相手の批判を受けて橋下さんが「では、あなたならどうしますか」と問うと、対案が出てこないのである。日本の与党を批判する野党が、与党から「では、あなたならどうするか」と問われると対案が出てこないのと同じ構造だ……こうしたことが日本のインテリに共通する弱さである。「では、どうするのか」に対する答えを用意していないのである。


確かに田原さんも指摘するように、「与党を批判する野党が、与党から『では、あなたならどうするか』と問われると対案が出てこない」というのは問題だ。しかし、それはあくまでも“政治家と政治家”の間での話である。それをそのまま“政治家とインテリ”の関係に当てはめるというのは、果たして妥当なことなのだろうか。

私は、インテリの良さとは「リアリティの欠如」にあると考えている。“リアリティのあるインテリ”など無用の長物に過ぎない。インテリとは所詮はその程度の存在であり、また、そうであるからこそ価値があるのだと思う。従って、インテリに対案を求めるのは筋違いだろう。もしかすると田原さんは、香山リカさんと同様に、インテリの役割を過大評価しているのかも知れないと感じた。


●決断できない

リーダーの意識が失われている日本の政治の世界で、橋下さんは「新しい権力をつくろう」「新しい体制をつくろう」と考えているのだと思う。日本のインテリの欠陥は、話し合いを重ねても、その後の決断と実行がないことだ。橋下さんは、話し合いをしたうえで決断、実行すると言っている。その「決める政治」に対して、日本の文化人たちは「ハシズム」と批判する。橋下さんとインテリの間にズレが生じているのである。


このような指摘は、私が前回、“反橋下感情”とでも言うべきものの本質について、一定程度は理解することができたように思う。つまり、橋下さんの主張には「みんなしっかりしようぜ! とりあえずやってみようぜ!」という通奏低音があり、反橋下派の人たちはそれを敏感に感じ取っている。そして、そんな通奏低音に対して、香山さんは単純に「怖い」と思い、薬師院さんは「大阪はそんなに頑張れない」と言っているのである、と述べたこととかなりの程度一致したものだと言えるだろう。

その上で私は、反橋下派がそうした“反橋下感情”というものに「名付け」の作業(=どういった事柄が問題なのかを指摘し、ある程度きっちりと概念化すること)を行い、それを“反橋下”ではない人にも理解できるような形でプレゼンテーションできない限りは、一般論的に「反橋下派の本質は感情論にある」と判断されても仕方がないように思う、という問題提起をしていた。


もっとも田原さんによると、「日本の文化人たちは、橋下さんの『決める政治』というのを『ハシズム』と名付けて批判している」という。しかし、橋下さんが選挙で当選したことからも明らかなように、市民=有権者の支持は橋下さんの方にある。もちろん、選挙で当選したからと言って、何をしてもいいということにはならないと思うが。

何度も繰り返しになって申し訳ないが、私は橋下さんに頑張ってもらいたい系の人である。一方で、反橋下派の異論もすごくよく理解できる。現在、民意が橋下さんの方にある以上、反橋下派が橋下さんを本当にヤバいと考えるのであれば、彼の主張を実も蓋もなく議論――これは討論には限らない。文章でもいいだろう――によってぶっ潰すしかないのだと思う



     ハシズムを許すな!



※決められないインテリ/(^o^)\は話にならないし、かと言って独裁もダメポ×(^o^)×という人へ
  → 「ばたお的議会改革案」でFA


(つづく)





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リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(4)

朝生・番外編②――“考察したった”

結局、反橋下派の橋下市長に対する政策面における批判はほとんど何も分からなかった


(1)しかし、分からなかったなりに、2人だけではあるが、橋下市長に対する批判のエッセンスを書き出してみたいと思う。

●薬師院仁志さん

チラ薬師院さんの主張をまとめると、以下のようなものになると考えられる。

「大阪都構想」の一体何が問題なのかと言われれば、それはよく分からない。ただし、そういった徹底的な地方分権は地方間競争を招くので、良くない。地方自治体は地元に密着した仕事のみをやるべきで、“大阪を何とかする”といった改革は国がやるべきである。

実際、薬師院さんは橋下さんが大阪市長になることへの違和感を持っているものの、仮に国会議員になることについては否定的ではなかったように思う。



●香山リカさん

香山さんは1/30、『朝生』での討論を受けて、「テレビの前で議論しても残る橋下市政への違和感(1)(2)(3)(4)」という中身がほとんどないと言わざるを得ないm9(^Д^)プゲラッチョな文章を発表している。なので、この主張も合わせて考える。

橋下氏が弁護士時代、テレビ番組で何度かはっきりと、「自分は改憲論者で核武装論者」と語っていたのを記憶しているからです。そのような発言をする方をリーダーと仰ぎ、そこで行われるグレート・リセット(筆者注――「改革」のこと)の先には、たとえば「核武装する日本」が待っているのか、とつい想像してしまったとしても、「それはおかしいですよ」と言われる理由はないと思います。  *(2)より


香山さんの主張は、橋下さんは「改憲論者で核武装論者」であるからリーダーとしては認められない、というものである。無論、「改憲反対」「核武装反対」を唱えることには何らの問題もないだろう。実際、私自身も少なくとも核武装には反対だ。しかし、香山さんの主張からは、「改憲反対・核武装反対こそが絶対的に正しいのだ」というような独善性が見て取れるような気もしないではない。なぜ、「改憲論者で核武装論者」が大阪市長になるのは問題なのか。なぜ、「改憲論者で核武装論者」は「民主的な人ではない」と考えるのか。しかしながら、そうした理由については『朝生』でも語られていなかったように思う。

(橋下さんは)脱原発依存を打ち出している。ただ、せっかく脱原発なのに、脱核兵器ではないとしたら、その姿勢には疑問を感じずにいられません。  *(2)より


確かに私も香山さんと同じく、「脱原発」で「脱核兵器」という立場である。しかしながら、「脱原発」だからと言って自動的に「脱核兵器」である必要はないだろう。香山さんの論理的な思考力を疑わせ得るm9(^Д^)プゲラッチョな言い回しである。


ぜひ目指すべき「より良い社会」とは何か、ということを明確に打ち出してもらいたい。そして、まずそれに市民、有権者、また“バカ学者”と言われた私のような評論家が賛同できるかどうかを議論することで、橋下市長が行おうとしている改革が有益なのかそうでないのかが、見えてくるのではないでしょうか。  *(4)より


ここは個人的に少し気になったので取り上げさせてもらったのであるが、「市民=有権者」と「評論家」の理想的な力関係は、「市民=有権者」>「評論家」であるべきなのではないだろうか。評論家はあくまでも1つの意見を提示するだけの言わば器官に過ぎない。私たちは評論家の意見も含めた様々な意見を聞き、その上で自ら判断を下すべきだと考える。もしかすると香山さんは、評論家の役割を過大評価し、民主主義の意義を過小評価しているのかも知れないと感じた。




(2)一方で、“反橋下感情”とでも言うべきものの本質について、一定程度は理解することができたように思う。

つまり、橋下さんの主張には「みんなしっかりしようぜ! とりあえずやってみようぜ!」という通奏低音があり、反橋下派の人たちはそれを敏感に感じ取っている。そして、そんな通奏低音に対して、香山さんは単純に「怖い」と思い、薬師院さんは「大阪はそんなに頑張れない」と言っているのである。だからこそ、批判が論理的ではないように見えてしまうのではないだろうか。

私の感想としては、反橋下派がそうした“反橋下感情”というものに「名付け」の作業(=どういった事柄が問題なのかを指摘し、ある程度きっちりと概念化すること)を行い、それを“反橋下”ではない人にも理解できるような形でプレゼンテーションできない限りは、一般論的に「反橋下派の本質は感情論にある」と判断されても仕方がないように思う。

しかしながら、総じて反橋下派は、そのようなプレゼンテーションの能力以前の問題があるように感じた。とりわけ薬師院さんや香山さんの「人の話を聞かない」「人が話している最中に割り込む」等の行為は、もしかすると“せっかく良いことを言っていたとしても、それが良いことに聞こえない”という効果を生んでいたかも知れない。これは端的に、マナーというか一般常識の問題だろう。橋下さんが交渉術に長けているとか、公開討論というのは「ディベート技術や極端に言えば声の大きさだけを競い合うような形になりがち」とか、そういった問題以前の問題であった。上から目線で申し訳ないが、薬師院さんや香山さんには、「何の脈絡もなく自分の言いたいことだけを一方通行的に主張するのではなく、今まさに喋っている人の話を遮ることなく最後まで聞き、その上で今何が主題となっているのかを判断し、それに即した形で自らの意見を述べる」ということが求められているのかも知れないと感じた。


(「朝生・番外編」、おわり)





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リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(3)

朝生・番外編①――“内容がないよう”

AKB48米平騒動がクライマックスを迎えていた1/28の未明、実は『朝まで生テレビ!』では、橋下徹大阪市長と反橋下の論客数人による「激論! 大阪市長“独裁・橋下徹”は日本を救う?!」(1/22に行われた討論の録画)が放送されていた。というか、1/28の未明が壮絶過ぎるだろJK




その内容なのだが、せっかく反橋下派が結集して3時間ほどの討論時間があったにもかかわらず、彼/彼女らの橋下批判は概ね具体性を欠き、揚げ足取りのようなものばかりであった。批判は総じて橋下市長への「手法」に対してであり、政策に対する本質的な批判はなかったように思う。

具体的な批判と言えば、薬師院仁志さん(帝塚山学院大学教授)や山下芳生さん(共産党・参院議員)が選挙の際のビラを取り上げて、橋下市長へマニフェスト違反を指摘している場面があった。しかし、これは中身のある批判ではなかった。これによって薬師院さんは、「チラ師院」「朝生のチラシ係」といった称号を得ることになった。

印象に残ったやりとりを1つ紹介したい。

  薬師院「大阪が一番繁栄していた、人口が一番多かった時期をご存知ですか?」
  橋下  「大正時代の300万です。相対的にですよ、東京と比べた時にですよ」
  薬師院「1940年=昭和15年の325万です。それから人口が減って、大阪の地盤沈下は始まったんです」

これは恐らく、薬師院さんではなく橋下さんの方が、より本質的な回答をしていると思われる。こうしたやりとりからも推測されるように、薬師院さんの話は常に本質を捉え損ねており、その上、建設的な議論を進めようとする姿勢も見られなかった。

また、薬師院さんは大阪市民らしく、自らを“大阪市民の代表”であるかのように振舞っていたが、正味のところ、橋下市長が選挙で当選していることから考えて、彼は“大阪市民の代表”ではなく“反橋下の大阪市民の代表”に過ぎないのではないだろうか。加えて、香山リカさん(精神科医)は、橋下さんが憲法9条改正論者・核保有論者であることを取り上げ、「彼は民主的ではない」という趣旨の発言をしていたが、これも普通に考えて、憲法9条改正や核保有の是非と「民主的か民主的でないか」とは関係がないのではないだろうか。




唯一、橋下市長の政策に対して具体的で直接的な批判をしていたのが、柳本顕さん(自民党・大阪市会議員)である。彼は、「大阪都構想」で大阪市が複数の行政区に分割されると、税収が多い区と少ない区ができ、結果として大阪市域内に格差が生じるのではないかとの懸念を示した。その上で、こうした行政区間の税収の差を是正するための財政調整についても、「その仕組みがいまいち分からない」と疑問を呈した。

これに対して橋下市長は、「大阪市の260万人全体で決定しなくてもいいのではないか、というのが僕らの考え方。市長をやれば分かる。260万の都市では住民の顔が見えない。路地裏がどうなっているのか、公園がどのような状況になっているのか、まったく分からない。基礎自治体の仕事ができない」とし、「大阪都構想」の重要性を強調しつつも明確な答えは避けた。

柳本さんは食い下がり、「複数の特別自治区になった時に行政コストは上がらないのか?」と質問を重ねた。これを受けた橋下市長は、「制度設計はこれから詰めていく。財源がどうなるのか、権限はどうなるのか。大阪市が受けている交付税や税収によって十分に賄えるという一定の結論は出ている」と述べたものの、具体的な回答は再び避けた。

しかし、こういった「大阪市域内に格差が生じる」という批判も、制度によって調整可能な問題であり、本質的な議論ではないだろう。教育の問題についても同じで、手法ばかりが非難され、本質的な批判はなされていなかったように思う。


(朝生・番外編②――“考察したった”へつづく)





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Re:リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(3) by hnhk
ナチズムの研究もされている池田浩士さんの講演録を昔読んだのですが、
ナチの時代を体験したドイツのお年寄りが、戦後何十年経っても、その時代に親近感を持っている、
その原因の一つが、「一家に一台フォルクスワーゲン」みたいな夢や希望を持てたこと(実際は車を手にしたのは、ごく少数)
といった内容が書かれていました。

橋下氏を批判する側には、本質的な議論も要求されるのでしょうが、
橋下氏がもたらす以上の希望を抱かせないと
有効な批判にはならないのかもしれませんね。
Re: Re:リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(3) by ばたお
政治闘争に勝つというのは、「民意を得る」ことだと思います。で、橋下さんは選挙で当選したので、まさしく「民意を得ています」。しかし、仮に橋下さんが本当にヤバいのであれば、どうにかしなければなりません。こうした前提が成立する場合、どのようにして橋下さんを批判すればいいのか。「劇場型の政治家=扇動家は危険だ」と悪口を言うだけでは、屁の突っ張りにもならないでしょう。従って、以下の3つの方法が考えられると思います。

1〉選挙の違法性を指摘し、橋下さんは民意を得ていないと主張する。
2〉hnhkさんの言うように、橋下さんがもたらす以上の夢や希望を人々に抱かせ、民意を奪う。
3〉橋下さんの主張を、実も蓋もなく議論――これは討論には限らない。文章でもいいだろう――によってぶっ潰し、民意を奪う。

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リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(2)

(1)全体を通して

橋下徹大阪市長は「会ったこともないのに人を精神病呼ばわりしている」とし、香山リカさんを批判した。これに対して香山さんは、仮にそういうふうに受け取られかねない言動をしていたのであれば、それについては謝罪し、その上で改めて、橋下さんの言動や政策の批判をするべきだったような気がする。

にもかかわらず、「橋下さん個人ではなく〈橋下的なもの〉という社会現象を分析したに過ぎない」といった、分かったような分からないような言い訳をグダグダと繰り返すことに終始し、もしかすると論点をすり替えているのではないかとも思えるような回答をしている。最悪、「橋下さんを支持した多くの大阪市民はバカである」というふうにしか聞こえない。

もっとも、大阪市民がバカだというのは別に構わないだろう。では、なぜ大阪市民はバカなのか、何が大阪市民をバカにさせたのか。もしこれが論点のすり替えではないのだとすれば、「〈橋下的なもの〉に社会病理性を感じる」と一蹴するだけでなく、それについての分析もなされるべきだったように思う。




(2)冒頭の文章表現がよくない

橋下さんはツイッターで、自らの方針を批判する学者や識者を攻撃しています。

学者や識者と呼ばれる、直接の執行者ではない人が、時の為政者や体制に自らの専門的な立場や経験に基づいて批判的な意見を言うのは、いつの時代においても重要なことと考えます。それは決して、橋下市長への個人攻撃ではありません。

その意味でも、“橋下現象”あるいは橋下さんの政治姿勢に対して懸念を表明してきた浜矩子さんや内田樹さんや高村薫さんといった方々に、橋下さんが感情的とも思える批判をぶつけることに違和感を覚えています。


香山さんが言うように、橋下市長ら時の為政者が、世間から批判を受けることは当たり前である。しかし、批判される側もそれに反論する権利は認められるべきだろう。浜矩子さんにせよ、内田樹さんにせよ、高村薫さんにせよ、また香山さんにせよ、自らの名前という看板を背負って発言している以上、名指しで批判されることは、これもまた当然であると思われる。



※ここから先は言葉尻を捉えた神経質的な批判になるので、あまり重要ではない。よって、読み飛ばしてもらって構わない(ただし、そういった重要ではないことの方にこそ、より重要なことが隠されていることがあるというのも事実である)。

> 橋下さんはツイッターで、自らの方針を批判する学者や識者を攻撃しています

揚げ足を取るようで申し訳ないのだが、“攻撃”という表現はあまりよくないと思われる。これは「善=反橋下、悪=橋下」ということを言外に主張しており、読者に、反橋下派というのは「批判を真摯に受け取っていない」「独善的だ」という印象を与えてしまいかねないからだ。実際、皮肉なことに、反橋下派が「橋下は独善的だ」と言えば言うほど、一般論的には「反橋下派は独善的だ」と評価されているような気がする(根拠はないw)。どちらの意見が正しいのか、最終的な善悪の判定をくだすのは読者であって、橋下さんでもなければ香山さんでもない。


> 橋下さんが感情的とも思える批判をぶつけることに違和感を覚えています

仮に橋下さんが“感情的な批判”をしているのであれば、どういったところが“感情的な批判”なのかを実も蓋もなく明らかにし、「アイツ、感情論で批判してるんだぜwww」とただ粛々とバカにすればいいだけの話である。では、なぜ香山さんはそうしなかったのだろうか。あるいは、できなかったのだろうか。そうした香山さんの主張とは逆に、一般論的には「橋下=論理的、反橋下=感情的」だと評価されているような気がする(これも根拠はないw)。


もしかすると、香山さんは橋下さんを批判しているようで、実は翻って自らの鏡像を批判しているのかも知れない。


(つづく)





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リアリティの欠如とエリート主義――「〈橋下なもの〉に感じる違和感」への違和感(1)

先日、橋下徹大阪市長は「会ったこともないのに人を精神病呼ばわりしている」とし、香山リカさんを批判した。以下の文章は、香山さんによるその反論――捉え方によっては、言い訳――である。


◆香山リカの「ほどほど論」のススメ より

「橋下市長個人にではなく〈橋下的なもの〉に感じる違和感。本当に必要なのはリダンダンシーのある社会ではないか」(1)(2)(3)(4)



その主張をまとめると、以下の3点のようになるだろう。

1〉橋下さん個人にではなく、〈橋下的なもの〉という社会現象(=象徴としての橋下さんや、彼を支持する人たちの言動、およびそれが先鋭化されること)に社会病理性を感じる。

2〉公開討論での勝ち負けに意味はない。意見の違いは、ディベート技術の競い合いでは発展的なものにはつながらない。

3〉効率化も大事だが、リダンダンシー=冗長性という視点も忘れてはならない。つまり、社会には必要最低限のものだけでなく、ある程度の余地や重複があった方がよいということ。




はじめに断っておくが、私は橋下市長に頑張ってもらいたい系の人である。一方、香山さんの異論もすごくよく理解できる。なので、橋下市長にはぜひ香山さんの主張を真摯に受け止めてもらいたい。と同時に、こうした“主張の仕方”では、多くの人には受け入れられないのではないかとも感じる。実際、私は彼女の主張にあまり説得されていない。

では、なぜ私は説得されていないのだろうか。また、私がこれでは多くの人には受け入れられないと感じるのはなぜだろうか。これから検討していきたいと思う。


    何がダメなんですか?


(つづく)





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ばたお

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・1983年大阪府生まれ。大阪府河内長野市在住
・半自給農民、工場非常勤。できるだけ稼がず、できるだけ消費しません。シェアハウス運営
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