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社会学としてのライトノベル論(16)

まんが・アニメ的リアリズム③:社会学的な現実性の問題

人によっては、マンガやアニメの「写生」に新たな「リアリズム」を見出すというこれまでの議論を、あまりに乱暴なものだと感じるかも知れない。

なるほど、確かにオタクの中には、現実よりもマンガやアニメの方を「リアル」だと感じる、現実の異性よりも二次元のキャラクターに「萌える」と主張する人が少なくない。しかし、それらの発言の多くは、実際には、あくまでも比喩的な誇張表現として、あるいはその前提の上での自虐ネタや韜晦として行われている。オタクとて、日常生活において、マンガやアニメを現実と混同しているわけではない。だとすれば、「まんが・アニメ的リアリズム」を“リアリズム”と呼ぶのは、オタクたちの誇張を文字通りに受け取った行き過ぎの表現なのではないか。

そうした疑問はもっともである。しかし、それでも、ここでは「まんが・アニメ的リアリズム」という名称を使いたい。というのも、ここで問われているのは、オタクたちが何をリアルだと感じているかという精神医学的な現実性ではなく、オタクたちが何をリアルだと感じる“ことにしている”かという社会学的な現実性だからである。


(つづく)




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社会学としてのライトノベル論(15)

まんが・アニメ的リアリズム②:「私小説」と「キャラクター小説」

「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」は、別の観点からも区別される。大塚英志さんによると、「自然主義的リアリズム」とは、描写の対象となる「現実」だけではなく、描写の起点となる「私」を必要とする創作手法でもある。例えば、私小説は、その「私」の機能が肥大化した形態だと考えられる。

しかしながら、「まんが・アニメ的リアリズム」の小説には、そのような「私」はそもそも存在しない。代わりに存在するのは、キャラクターである。大塚さんは「『アニメのような小説』においては『写生』すべき『私』は存在しません。何しろそこにいるのは『私』や生身の身体を持つ人間ではなく、架空のキャラクターなのです」(『キャラクター小説の作り方』)と述べ、ライトノベルを「キャラクター小説」と呼ぶことを提案している。純文学は「私」を描くので私小説、ライトノベルは「キャラクター」を描くのでキャラクター小説、というわけだ。


以上のような大塚さんの認識は、ライトノベルをジャンルとして定義するものでも、パッケージで定義するものでもないという点において、これまでの議論と一致している。私たちは、ライトノベルの本質を「キャラクター」という想像力に求めた。大塚さんの「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉は、そうした「キャラクター」という想像力と作者あるいは読者の関係を、簡潔に表現したものだと言えるだろう。

そしてまた、「キャラクター小説」という名称も、「ライトノベル」という言葉にどうしても憑きまとうレーベル名としての含意を削ぎ落とし、本質だけを的確に捉えた非常に優れた「名付け」であると思われる。なので、私たちはここから先、「キャラクターという想像力に基づいて書かれる小説」を論じる際、こうした大塚さんの提出した概念や名称も用いていくことにしたい。


(つづく)




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社会学としてのライトノベル論(14)

まんが・アニメ的リアリズム①:「現実の写生」と「虚構の写生」

私たちはここまで、ライトノベルの本質は「脱物語的・メタ物語的なキャラクター」という想像力にあること。そして、そのような“ライトノベル的な想像力という環境”が現実に成立してしまう状況というのは、まさに「ポストモダンの文学的な反映」として捉えられること。そんな感じのことを論じてきた。では、ここからは、そうした“環境”の内実に踏み込むことにしよう。


さて、大塚英志さんは、ライトノベルを論じるに際して、「まんが・アニメ的リアリズム」という興味深い概念を導入している。

大塚さんによると、純文学からミステリやSFまで含めて、ライトノベル以外の小説はすべて、「現実を写生する」ものである。ミステリやSFは非現実的な事件を描くが、それはあくまでも「現実の写生」を前提とした上で、そこに違和感を持ち込む手法なのだという。それに対して、ライトノベルは、言わばマンガやアニメの世界という「虚構を写生する」点に特徴がある。こうした「現実の写生」と「虚構の写生」という対置を、大塚さんは、「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉で表現している。


(つづく)




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社会学としてのライトノベル論(13)

“作品間の環境”としてのライトノベル

ライトノベルというのは、しばしば作家や読者が“その本質”に無自覚のままで現れる。だからこそ、ライトノベルの想像力は“ポストモダンという現実”を見事に反映しているのだ――。


これはまた、私たちがライトノベルの性格を、小説の内容そのものにではなく、「小説と小説の間の環境」に見ていることも意味している。

いわゆる「ポストモダン文学」は、小説の内部でいくら前衛的な実験を行っていたとしても、現実には保守的な文学作品として流通している。そうした小説は、文芸誌に掲載され、文学賞を受賞し、大学で教材として取り上げられる。その環境はポストモダンの条件からほど遠い。対照的にライトノベルは、仮にその小説の内容が類型的で凡庸なものであったとしても、その制作や流通の過程は近代文学のそれからは大きく離れている。そして実際に、ライトノベルは文学として扱われることは少なく、オタクたちという従来とは別の回路で消費され支持され読解されている。


またしても私たちは、“作品内の物語”から“作品間の環境”へと焦点を移すことになった。それにより、これまでポストモダンという時代認識とは無関係だと思われていたライトノベルが、突如としてポストモダン的な現象として立ち現れてきた。従って、現在の社会や文化を分析するに際して、ライトノベルやその担い手であるオタクは重要な位置を占めてくることになる、ということが言えそうだ。


(つづく)




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社会学としてのライトノベル論(12)

ライトノベルは“ポストモダンという現実”を反映している

さて、ここでややこしいのが、いわゆる「ポストモダン文学」である。

一般的にポストモダン文学というのは、近代文学の前提を解体し、新しい小説の方法を意識的に再構築していくような、知的で複雑で、作家性の強い試みを指している。例えば、アメリカのトマス・ピンチョン、ドナルド・バーセルミ、ジョン・バース、その後継者であるポール・オースターやスティーヴ・エリクソン、サイバーパンクの一部、日本では筒井康隆、高橋源一郎、島田雅彦といった作家たちである。ライトノベルの表現は、常識的にはそのような文学運動の対極にある。



しかし、私たちは(11)において、「ポストモダン」と「ポストモダニズム」を方法論的に区別している。そうした立場からすると、例えば、オタクはポストモダン(という現象)が生み出した集団だと言えるが、それは必ずしも彼/彼女ら自身がポストモダニズム(という思想潮流)を信じていることを意味しない。宮台真司さんの『制服少女たちの選択』によると、実際、日本のオタクは、1980年代に生じたサブカルチャー内の序列化のため、意識的にはポストモダニズム、というかニューアカデミズムから距離を取ることが多いという。

同じことが文学についても言える。上述の立場からすると、「ポストモダン文学」は、ポストモダニズムと同じく、ポストモダンの条件が生み出した小説形式のひとつに過ぎない。しかし「ポストモダン的な小説」とは、他にも様々な形で、時には――というか、しばしば――作家や読者が“その本質”に無自覚のままで現れる。ライトノベルとは、その後者の意味でポストモダン的なのである。



従って、「ライトノベルはポストモダン的な小説である」というのは、必ずしも作家がその位置を自覚していることを意味しない。作家一人ひとりは、締切りに追われながら、より売れる小説、より人気の出る小説を作ろうと努力しているだけなのかも知れない。しかし、だからこそ、ライトノベルの想像力は、オタクの消費原理を、すなわち“ポストモダンという現実”を見事に反映してしまうのだ。


(つづく)





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社会学としてのライトノベル論(11)

「ポストモダン」と「ポストモダニズム」

では、なぜ、今さら「ポストモダン」なのか。私は特にポストモダン思想にシンパシーを持っているわけではないが、端的に“ポストモダンは現実である”と認識しているからだ。どういうことだろうか。


東浩紀さんは『アスティオン』54号(2000年11月)に掲載された『ポストモダン再考』において、「ポストモダニズムは確かに終わった。それはいまや誰の目にも明らかであ(る)」という認識を示した上で、「社会状態を意味する『ポストモダン』、およびそこから派生した『ポストモダン化』『ポストモダン的』という言葉と、時代精神を意味する『ポストモダニズム』という言葉を厳密に区別すること」を提案している。無論、こういった解釈は一般的なものではなく、東さん独自のものであることを自身も認めている。その上で、少なくともそのように分けた方がはるかに分析が明晰になるのではないか、という主張である。

東さんに従えば、「ポストモダン」とは、1970年代以降の社会的・文化的な変化一般を広く指す言葉であり、一方の「ポストモダニズム」「ポストモダン思想」とは、その中で生まれたひとつの思想的な立場に過ぎない。


“現実としてのポストモダン”を認識するという作業は、好き嫌いの話で終わらせることはできない。例えば、マルクス主義が嫌いだからと言って、マルクス主義を避けては通れないのと同じように、ポストモダンが嫌いだからと言って、ポストモダンを避けて通ることはできない、ということだ。


(つづく)





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社会学としてのライトノベル論(10)

ライトノベルはポストモダンの条件を体現している

ライトノベルの本質は、物語にではなく、「脱物語的・メタ物語的なキャラクター」という想像力にあることが分かった。すなわちライトノベルの作家や読者は、物語を構築する、あるいは読解するために、作家のオリジナリティや物語のリアリティにではなく、「キャラクターというメタ物語的な行動様式の束」を参照しているということだ。こうした特徴は、ライトノベルが、本質的にポストモダン的な小説形式であることを意味している。



「ポストモダン」とは何か。それは、具体的には「大きな物語の衰退」のことである。簡単に説明すると、社会の構成員に対する特定の価値観やイデオロギーへの共有化圧力の低下、すなわち、メタ物語的な合意の消滅を指摘する議論である。

オタクたちが作り上げてきた「様々なキャラクターの類型=行動様式の束」というのは、決定的なひとつの物語を成立させないにもかかわらず(キャラクターが物語を逸脱する)、複数の非主流的な物語を次々と成立させてしまう(ひとりのキャラクターから複数の物語が生成される)。そうした点が、まさにポストモダンの物語制作の条件を体現していると言える。

また、ライトノベルの出現と拡散を「ポストモダン」という観点から捉えることは、時期的にも妥当なものだと考えられる。なぜなら、ライトノベルの起源は、(1)で指摘したようにポストモダンが始まった1970年代であり、その拡大が始まったのは、ちょうど日本でポストモダン化が加速した1990年代であるからだ。



すなわちライトノベルとは、ポストモダンの到来が誕生させた、「ポストモダンの条件を体現する小説形式」なのである。従って、ライトノベルについて考えることは、“ポストモダンという現実”について考えることに繋がっている。


(つづく)





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社会学としてのライトノベル論(9)

再び……「ライトノベル的」とは

ライトノベルとは、「脱物語的・メタ物語的なキャラクター」を軸として組み立てられる以上、必然的にジャンルを逸脱してしまう。


ライトノベルの作家は、物語の様式を規定するジャンル的な規範意識ではなく、多ジャンル的な「キャラクターという名の潜在的な行動様式の束」という想像力に依拠して、小説を書いている。そのため、彼/彼女らは、読者がファンタジーを求めていればファンタジーを、SFを求めていればSFを、青春小説を求めていれば青春小説を、柔軟に書き分けることができるのだ。新城カズマさんも『ライトノベル「超」入門』において、「ライトノベルはそれ自体が特定のジャンルではない、であるから、どのジャンルも等価に扱っている。扱うことができる」「購買層の流行に対応するかのように、あるいは読み手と書き手とがキャッチボールをしていく過程で、各ジャンル・フィクションを使いこなしている」と述べており、そうした多ジャンル的な特徴を「ゼロジャンル」と呼んでいる。


「ライトノベル的」というのは――(5)における疑問――、恐らく物語の内容でも、またレーベルの特性でもなく、以上のような“「脱物語的・メタ物語的なキャラクター=潜在的な行動様式の束」という、作品と作品の間に存在するオタクたちの想像力”のことなのではないだろうか。


(つづく)





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社会学としてのライトノベル論(8)

キャラクターとは潜在的な行動様式の束である

さて、私たちはライトノベルについて考えていたのであるが、その考える支点を物語からキャラクターへと移動させたことによって、ライトノベルの本質というのが何だか浮かび上がってきたように思う。


というわけで、ここで私たちは、ライトノベルあるいは「ライトノベル的な小説」の本質を、作品の内部(=物語)にでも、作品の外部(=流通)にでもなく、作品と作品の間における想像力(=キャラクター)にあると考えてみることにしたい。つまり、ライトノベルを「キャラクターという想像力に基づいて書かれる小説」だと定義することにしたい。



そして、この定義を採用するならば、ライトノベルのキャラクターとは、個々の物語を超えた作品間の想像力の中に存在していることになる。従って、彼/彼女らは、ひとつの人生を歩み、ひとつの物語の中で描かれる人間というよりも、「様々な物語や状況の中で現前化する潜在的な行動様式の束」なのである。ちなみに『ライトノベル「超」入門』において新城カズマさんは、これを「(ありうべき)物語がぎゅうっと圧縮されて、人物イラストの中に封じ込められている状態。むしろ、コンピュータ用語から近年一般化した用語『アイコン』に近い」と表現している。

これは言い換えると、ひとりの「キャラクター=潜在的な行動様式の束」を軸として、様々な物語や状況が展開可能であるということだ。


(つづく)





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社会学としてのライトノベル論(7)

キャラクターが物語に優先する

「キャラクターは自律している(脱物語化、メタ物語化)」という観念。そこから生まれる、「キャラクターは共有財である」という観念。こうしたオタクたちのキャラクターをめぐる想像力の特性は、制作者にも大きな影響を与えている。

とりわけ「キャラクターの自律化」という観念は、コンテンツの制作者にとっては、キャラクターの魅力が物語の魅力とはある程度独立して測られることを意味する。実際に現在のオタクの市場では、物語に人気がなくてもキャラクターには人気があるという事態も珍しくはない。当然、その逆もある。従って、そこでは多くの作家たちが、物語内部での必然性や整合性からはとりあえず離れ、作品と作品の間に存在する自律したキャラクターたちを一種の市場と見なして、そこでの競争力を基準にキャラクターの設定や造形を決定するように変わっていくことになる。すなわち、物語が要求する人物像の構築以前に、まずはキャラクターの類型の流行を分析し、それとの関係で「キャラを立てる」ことが作品制作の大きな課題となっていくのである。

このような「物語の地位低下とキャラクターの自律化」は、何も今に始まった話ではなく、1990年代後半以降のオタクたちの表現と市場を規定する大きな流れだと言うことができる。



そしてまた、ライトノベルの制作過程も同様の流れの中にある。しかもライトノベルにおいては、文章とイラストが隣り合って並べられ、物語とキャラクターの共存と分離が分かりやすく示されるために、キャラクターの自律化と共有財化は他のメディアに比べて急速に進んだ。新城カズマさんの『ライトノベル「超」入門』においても、ライトノベルの概観に当たっては、物語の紹介にではなく、近年のライトノベルに現れる「キャラ類型」の紹介に多くのページが割かれている。こうした事態は、純文学や一般小説の紹介本では考えられないだろう。


新城さんが「キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先してゆく」と指摘しているように、まさに「キャラクターが物語に優先する」のである。


(つづく)





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プロフィール

ばたお

Author:ばたお
・1983年大阪府生まれ。大阪府河内長野市在住
・半自給農民、工場非常勤。できるだけ稼がず、できるだけ消費しません。シェアハウス運営
・土と暮らし研究会

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