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ばたお的議会改革案(8)最終回

最終回

●今来た人も三行で分かる「ばたお的議会改革案」のまとめ

  エリート・公選制・高い給与・密室での討議
             ↓
  一般大衆・くじ引き制・低い給与・一般意志を議論の前提にする(=無意識の可視化)




●無意識民主主義――議会=政治=国家を意識しない社会へ

例えばの話だが、私たちは水道に依存して生活している。もし水道が止まったならば、誰の生活も成り立たないだろう。にもかかわらず、私たちはその体制や運営にあまり関心を向けていない。水道局は、季節や日時や状況に応じて水の供給量を変えている。つまり、水道局は“市民の水を飲む権利”を一方的に管理しているわけなのだが、それでも私たちは、水道局に消費者の代表を送り込もうとか、住民会議で供給量について議論しようなどとはあまり思わない。なぜならば、私たちは皆、生活用水や工業用水の最適な配分は、地域全体の供給量と需要予測に応じて“自ずから決まるもの”であり、素人の市民が“合意”で作り出すようなものではないと思っているからである。


「ルソー-ばたお的民主主義」における議会運営とは、言わばこうした「水道局モデル」である。そして、これこそが“本来的な政治”の在り方なのだと考える。もちろん、“従来的な政治”というのが必要になってくる局面もある。それは、社会各所からの欲望の収集と分析がうまくいかなくなっとき(水道局で例えると、水の配分がうまくいかなくなったとき)である。


私たちは普段、水道局の存在を意識していない。しかしながら、水道事業は適切に執り行われている。同様に、誰も政治意識を高く持たなくとも、「人々の欲望が管理され、それを最適化する政治が行われる社会」こそが、最も善い社会であると考える。当該「ばたお的議会改革案」では、そうした社会を支えるための理念とシステムが提示されたのであった。それを、ここでは暫定的に“無意識民主主義”と呼ぶことにしたい。“無意識民主主義”に支えられた社会、すなわち「議会=政治=国家の存在を意識しないでいられる社会」という在り方こそが、本来的な意味で“政治意識の高い社会”なのではないだろうか。


    おまえは何を言っているんだ


(ばたお的議会改革案、おわり)





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ばたお的議会改革案(7)

実質的な民主主義⑤:間接民主主義から直接民主主義へ

「一般意志=可視化された無意識」を議論の前提にするという「ルソー-ばたお的民主主義」に対して、以下のような批判・質問が予想される。それぞれに回答することにする。


1〉一般意志を実体化すると、ロベスピエール化する危険性がある。一般意志の暴走をいかにして防ぐのか(「ロベスピエール化」問題)。

確かに一般意志が実体化されるが、それはあくまでも「決定の材料」である。そこには、人々が生理的に望んでいることをまず明らかにした上で、そうした生理にあった合理性の方が、よりうまく政策を実現させることができるのではないか、という発想があるに過ぎない。そもそも、必ずしも一般意志に従う必要はない(第4原則)。



2〉私たちの行動や選択は、そもそも既存の枠組みによって規定され、制約されている。人々の無意識にはバイアスがかかっているのだ。そんなものを一般意志と呼んでいいのか(「バイアス」問題)。

もっともな意見だが、それは防ぎようがないし、どうしようもない。一般意志とは、所詮はその程度のものでしかないという認識を持つことこそが重要である。なので、必ずしも一般意志に従う必要はない(第4原則)。



3〉一般意志を参考にした政治はポピュリズムである。それは衆愚政治に陥るので、良くない(「衆愚政治」問題)。

「衆愚政治」というのは、エリートが創り出したフィクションである。そして、仮に現状よりも政治状況が悪化したとしても、それは結果論である。

そもそも直接民主主義こそが、本来的な民主主義の在り方である。間接民主主義(=形式的な民主主義)というのは、直接民主主義(=実質的な民主主義)を実現できる条件が整えられていないため、仕方なく暫定的に採用されてきたシステムに過ぎない。

無意識の可視化がイレギュラーなのではなく、無意識を可視化することによって、はじめて民主主義は正常に機能するのである。


(「実質的な民主主義」編、おわり)





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ばたお的議会改革案(6)

実質的な民主主義④:政策立案のための市場調査

さて、「一般意志」とはどういうものだっただろうか。それは一言で言えば、「可視化された無意識」のことだ。


そこで、「無意識の可視化」という作業を従来の政治過程に組み込み、「一般意志=可視化された無意識」を政策決定に活用するという、議会=政策立案における新しい意思決定のシステムを提案したい。そして、「ひたすら話し合いさえすれば何とかなるのだ」という「討議的民主主義」に対して、このような「可視化された無意識を前提にした話し合い」という在り方を、暫定的に「ルソー-ばたお的民主主義」と呼ぶことにしたい。ちなみに、ルソーは「討議的民主主義」という在り方に否定的だったが、この「ルソー-ばたお的民主主義」というのは「討議的民主主義」を否定する性格のものではない。



 〈ルソー-ばたお的民主主義〉
    第1原則:高度に発達した情報技術によって、人々の無意識を可視化する。
    第2原則:「無意識を可視化するシステム」のソースコードは、常に公開される。
    第3原則:「可視化された無意識=一般意志」を議論の前提にして、政策を立案する。
    第4原則:一般意志はあくまでも参考に過ぎず、議員は必ずしもそれに従う必要はない。



例えば商品開発をする際、私たちは普通、市場調査を行うだろう。なぜなら、いくら“素晴らしい商品”をつくったとしても、それが受け入れられて売れなければ意味がないからだ。政策立案に関しても同じことが言えるのではないだろうか。いくら“素晴らしい政策”をつくったとしても、それが受け入れられずに誰も従わなかったとしたら意味がない。それは、まさに革命前夜である。


私たち一般大衆の“革命する権利”は認められるべきではあるが、そうならないように「政策立案のための市場調査」というものがなされてもいいのではないかと考える。それこそが、「無意識の可視化」なのである。



   何かあったらすみません



(つづく)





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ばたお的議会改革案(5)

実質的な民主主義③:一般意志を実体として読む

では、現在の情報社会という文脈に則った上で、「一般意志」を努力目標という名の理念ではなく、実体として捉え直してみたいと思う。


高度に情報技術が発達した社会、すなわち現在のユビキタス社会においては、好むと好まざるとにかかわらず、私たちは絶えず個人情報をばら撒いて生活しており、実は人々の行動履歴といったデータは大量に蓄積されている。「そうした大量のデータから沸き起こってくる、集団としての人々はどのように行動するのかというパターン」を、一般意志と呼んではどうだろうか(もちろん、そうしたデータを利用して「ある特定の人間のある行動」といった話をすると、プライバシーの問題などが発生して、良くない)。


すなわち、一般意志とは“自動生成される”ものなのだ。情報学に「疑似同期」(濱野智史)という概念がある。これは、「客観的には同期していないが、システムの作用によって主観的には同期している」ということだ。(同期的な)討議によって成立する全体意志に対して、一般意志は「疑似同期」的な討議によって成立するとも言えるだろう。


ルソーの時代には、今のような高度に発達した情報技術などなかったし、数学もあまり発達していなかった。なので、ああいう言い方しかできなかった。しかし、今から読み返してみると、そういう風に読めなくもないということだ。もちろん、こうした主張の根拠は特になく、敢えて言うならば私の直感である。あるいは、ルソーを持ち出して権威付けることによって、自らの主張のゴリ推しを正当化しようとしていると言い換えることもできるかも知れない。



 〈全体意志〉
    ・個人の意識的な欲望の集合
    ・討議=話し合いによって決定される


 〈一般意志〉
    ・集団としての無意識的な欲望
    ・大量のデータから必然的に立ち上がる人間の行動パターン
    ・自動生成される=「疑似同期」的な討議



恐らく、「そんな定義は文献学的に間違っている」という批判があるだろう。そういった真摯な批判は甘んじて受け入れなければならないが、一方で「文献学的な正しさ」を特に求めているわけではないことも、また一面の事実である。


古典というのは、現代風に解釈するからこそ意味があるのではないだろうか。例えばルソーの「一般意志」みたいな概念を、現代風に読み替えて、現代的な議論な中に接続していく。それこそがクリエイティブなことであり、実践的なことのような気がする。「そういうことはもっと権威のある大学教授とか成功した事業家とかが言うことであって、お前のような権威も何もない無職の言うことではない。早く就職しろ」という批判もあるだろう。確かにそれは自分でもそう思うが、「そんなこと言われたらどうしようもない」というのもある。ただしポジティブに捉えるならば、「私のような普通の一般大衆が言うからこそ、よりインパクトがあるのだ」と言えないこともないかも知れない。



   そんな事言われたらどうしようもない



(つづく)





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ばたお的議会改革案(4)

実質的な民主主義②:「無意識」という概念の導入

ルソーが最初に「一般意志」と言ったとき、果たして彼はどういうことを想定していたのだろうか。ルソー研究のスタンダードはひとまず置いて、自分なりに考えてみることにする。


その際、ポイントは2つある。1つは、ルソーは一般意志と全体意志を区別していること。もう1つは、『社会契約論』とは別のテクストにある。すなわち、『エミール』における「人間のつくる秩序は信用ならない」とか、『人間不平等起源論』における「自然のつくる秩序が最も合理的である」とかという趣旨の発言だ。そういったことを踏まえて考えるならば、「人間が話し合ってつくるというものではないこと」「意識の根底にあって、人々が生理的に求めてしまうこと」というのが、一般意志の基本的な性質であることが分かる。


恐らくルソーは、一般意志という言葉を用いて「無意識の欲望」みたいな話をしていたのではないだろうか。では、なぜそういう言い方をしなかったのか。それは端的に、まだ「無意識」という概念が発見されていなかったからだろう。「無意識」という概念がフロイトによって発見される=でっち上げられるのは、およそ150年後の話である。



      ▼フロイト。精神分析学というイカサマな学問分野をつくった。
      フロイト



(つづく)





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ばたお的議会改革案(3)

実質的な民主主義①:ルソーのスタンダードな解釈

ルソーの政治思想の特徴は、(1)近代文明への批判、(2)「一般意志」の主体である市民による「直接民主主義」である。後者の「一般意志による直接民主主義」という思想は、「人民主権論」でもある。こうしたルソーの思想から、私たちは大いに学ぶべきだと思う。理由は特にないが、敢えて言うならば「ティンと来た!」からだ。



      ▼ルソー。テレーズとの間にできた5人の子供はすべて孤児院の前に捨てた。
      ルソー



周知の通り、ルソーは「一般意志」という概念を導入して社会秩序の正当性を論じた。一般意志とは「常に公的利益のみを目指す共同体の意志」のことであり、これは私的な利益を追求する「特殊意志」はもとより、特殊意志の総和である「全体意志」とも区別される。私たちは、一般意志に参加して法をつくる主体としては「市民」、一般意志がつくった法に従う客体としては「臣民」ということになる。このような「人民主権論」は、後のフランス革命につながった。


一般意志の発動としての主権は分割されず、そこではロックやモンテスキュー流の権力分立論は否定される。ルソーはイギリスの代議制を批判し、「イギリス人は自分が自由だと思っているが、自由なのは投票の瞬間だけであって、その後は再び奴隷の状態となる」と皮肉っている。従って国の統治形態としては、人民集会からなる立法府に最大の権力が与えられ、法を執行する権力に過ぎない行政府は立法府に従属するものでなければならない。


しかしながら、こうした体制は小規模な都市国家でなければ実現困難であることを、ルソーはまた認めている。彼が念頭に置いていたのは、都市国家・ジュネーヴである。当時のジュネーヴの人口はおよそ2万5000人、しかも彼が「市民」だとは考えていなかった女性や下層階級の人々を除外すれば(これは歴史的条件による制約である)、政治的共同体を構成していたのは1500人程度に過ぎなかったとされる。ルソーは生涯、すなわちジュネーヴにおいて『社会契約論』と『エミール』が焚書に付され、自らにも逮捕状が出された1762年以降も、ジュネーヴを称えることをやめなかった。一方で自らの抱くジュネーヴ像が、現実のジュネーヴからはかけ離れた単なる理想であることも認識していた。


こうしたルソーの「一般意志による直接民主主義」という思想は「討議的民主主義」という価値観に否定的であり、これは実体化させるとロベスピエールとなって、反対派はマミられる恐れがある。そもそも定義が曖昧だし、従って、一般意志は理念=努力目標として捉えられるべきである。



      ▼ロベスピエール。「ルソーの血塗られた手」。
      ロベスピエール



――と、教科書には書いてある。すなわち、これがルソーのスタンダードな解釈である。言い換えると、これはルソーのスタンダードな解釈に過ぎない。


(つづく)





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ばたお的議会改革案(2)

実質的な国民主権:くじ引き代表制

●くじ引き代表制とは何か

現在の公選代表制をくじ引き代表制に変更する。すなわち、「立候補者がみんなでくじを引き、当たった者が議員になれるという代表選出システム」への変更ということだ。そして同時に、「議員期間中は職場を休職できるという制度」を整える。イメージとしては、「私たち普通の人――政治に関心のある――がくじで当たった1期だけ議員活動を行い、終わればまた職場に戻って普通の人になる」という在り方である。


1〉失政の責任を私たち国民が直接的に負うことになるので、政治課題を人任せにするという風潮を排除できる(ただし現在でも、議員とは結局は私たち国民が選出したものであるので、失政の責任は間接的には国民にある)。

2〉やりたい人がたくさん集まってくじを引いて議員を選出するため、結局は比例代表制に近く、従来の公選代表制よりも、比較的、世論を正確に反映することができる。

3〉現在、議員は「政策立案」と「選挙活動」というそれぞれがリンクしない2つの活動をしなければならないが、くじ引き代表制になれば「政策立案」のみに集中することができる。それに伴い、選挙にかかるお金も削減することができる。

4〉議員をコロコロと替えることにより、議員の利権体質を排除できる(記事「ばたお的議会改革案(1)」におけるhnhkさんのコメントへの回答)。

5〉世襲議員という在り方を排除できる。

6〉裁判員制度とは異なり、議員になりたい人だけが立候補するというシステムなので、やる気のない人を排除することができる。そして、宗教など思想・信条から政治に参画したくないという人の権利も守ることができる。



●くじ引きこそが本来の在り方

もしかすると、本当の意味での国民主権を実現するための代表選出システムとは、選挙ではなくくじ引きなのかも知れない。すなわち、従来は国民全体の教育レベルが低かったため、それを実現することはできなかった。しかし、国民全体の教育レベルが非常に高くなった現在の日本において、それを実現するための条件がようやく整えられたということだ。

私たちが、現在のような形式的な国民主権(=実質的には国民主権ではない)ではなく、実質的な国民主権(=本当の意味での国民主権)を目指すのであれば、政治の直接的な担い手を“プロの政治家=政治屋”から“私たち普通の人”に移譲するというくじ引き代表制こそが、その有効な手段なのではないだろうか。



●エリートからの反論

一部のエリート主義者からは、「くじ引き代表制を導入すれば、官僚が議員に従わない。よって、実質的な国民主権を実現すべきではない。あくまでも政治的エリートが国を統治すべきである」という意見があるかも知れない。しかし仮に、くじ引き代表制(=本当の意味での国民主権)の導入によって統治がうまくいかなかったとしても、それは結果論である。

日本の統治機能の崩壊が意味するのは、日本国民に統治能力がなかったということだ。その際は、統治(=議会や官僚)という社会的なコストを外部に委託すればいいだけの話だろう。具体的には、アメリカなり中国なりに統治してもらえばいいと思われる。



    やればできるはず





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Re:実質的な国民主権:くじ引き代表制 by hnhk
正直、政治に関しては誰がやっても一緒というより、今の権力の中枢に群がる人間たちがやるより、くじ引き議員の方がマシかもという気がしています。

もう少し、日本の統治機構がガタガタになったらくじ引きでも良いかも。
その時は、政治家と事務次官等の官僚TOPも、一緒にくじ引きにしましょう!

宝くじの当選を決めるみたいに、矢が刺さって決まった年金番号の人が当選なんてどうです。中継は、事業仕分けによりyoutubeになると思います。

追伸
 今日、某サイトの書き込みを見ていたら「藤子・F・不二雄先生に生き返ってほしい。その代わりに政治家が全員死んでもいい」とコメントされていました。
全員死んでも良いとは思いませんが、民衆の実感かもと思えました。
Re: Re:実質的な国民主権:くじ引き代表制 by ばたお
ご賛同ありがとうございます。

……ただ、政治家は“私たち普通の人”がやるべきだと考えますが、官僚までくじ引きで決めていいのかということになると、難しいですね。今のところ、私には判断できません。

> 「藤子・F・不二雄先生に生き返ってほしい。その代わりに政治家が全員死んでもいい」

残念なことに、その政治家を選んでいるのが“私たち国民”なんですよね。ここから、2つの道を提示することができます。

① 民度以上の政府は作れない。なので、国民が賢くなり、ちゃんとした人を選挙で当選させる。→ 啓蒙主義。

② 選挙は国民主権を実現していない。くじ引き代表制こそが国民主権を実現する。ただし、このモデルへの変更は、必ずしも状況を改善するというものではない。当然、悪化する可能性もある。→ エリートではなく、一般民衆への信頼。

で、私は②を提案しています。

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ばたお的議会改革案(1)

歳費・議員報酬の削減

歳費・議員報酬とは、議員に支払われる事実上の給与のことだ。それらを削減することによって、「高い報酬が目当て」という議員をなくすことができる。また副次的な効果として、歳出を抑えることもできる。ちなみに、「議員定数を削減したい(んだけど、実際にはしないよ)」という一部の議員がいるが、定数も報酬もともに削減すれば、より一層、歳出を抑えることができるのではないかと思う。



●月10万円でいい。

では、適切な金額はいくらぐらいだろうか。恐らくそれは、どれだけ多くても国民の平均所得と同額にするべきだろう。「議員は国民の代表なのだから、国民の社会平均的な水準以上の生活をするべきではない」というのが、その理由である。


月10万円ぐらいで生活している人もたくさんいるので、個人的にはそれぐらいの金額でもいいのではないかと考える。ただし、国政調査費や政務調査費など政策の調査・研究のために支払われるお金に関しては、そのままでいいと思う。「報酬が削減されると政策立案ができない」という一部の議員に関しては、そもそも議員としての能力不足の可能性があるので、歳費・議員報酬を削減することは、そうした議員をなくす効果もあるだろう。



●「高い報酬でないと貧乏人が議員になれない」という意見がある。

これは言い換えると、「貧乏人は報酬が高いからこそ議員になるのだ」という意見である。その背景には、「報酬を高く設定することで議員になることのインセンティブを作り、貧乏人も議員にしよう」という発想があるのではないだろうか。すなわち、「高い報酬が目当て」の議員を容認する意見であるということだ。

確かに、選挙権や被選挙権に所得制限を設け、貧乏人を議会から排除することには反対である。しかし、「貧乏人を議員にするために報酬を高く設定する」という意見に関しては、「高い報酬が目当て」の議員を容認するものであるため、同意することはできない。本当に議員になりたいのであれば、報酬が高かろうが低かろうが、金持ちだろうが貧乏だろうが、立候補するだろうし、そうあるべきだと考える。


また、そもそも貧乏人ははじめから貧乏な生活を送っているので、報酬が少なくても特に何も困らない。困るのは、むしろ金持ちの方ではないだろうか。実際のところは、「高い報酬でないと貧乏人が議員になれない」というよりも、「高い報酬でないと金持ちが議員になれない」という意見こそが正しいように思われる。

仮に報酬が削減されて、貧乏人が議員にならず、金持ちばかりが議員になってしまったとしても、それはあくまで結果論である。厳しい言い方かも知れないが、それは貧乏人の甘えではないだろうか。





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Re:ばたお的議会改革案(1) by hnhk
議員報酬も自治体の規模や財政状況によって、天地の差があるみたいです。
ばたおさんが学生生活を送られた京都府では、高卒初任給とさほどかわらない報酬の町議会もあれば、京都市や京都府議会のように大企業管理職並みのところもあるようです。

議員としての仕事量がさほどなければ、議員は兼業可能ですから、報酬は低くてOKだと思います。
反対に、激務であれば、議員報酬だけで食べていくことになるのと、大抵4年間の有期雇用であることも加味した報酬にしないといけないでしょうね。

議員報酬を見直す場合は、議員としての仕事量や再就職の容易さ等々、総合的に判断しないといけないので、簡単には答えを出せそうにないです。

ただ、国政や大都市の議員の場合、実際のところは、公共事業やさまざまな許認可等の利権を握ることによるメリットの方が、報酬よりずっとおいしいのだろうと思います。
本当のところ、議員になるインセンティブは報酬よりも利権の方か主要因のような気がします。

ちなみに、議員報酬が低すぎると、裏金みたいなのをたんまり持っていても使いづらいでしょうね。
「なんでそんな金あんのヾ(ーー )ォィ」ということになるでしょうから。
Re: Re:ばたお的議会改革案(1) by ばたお
> 議員報酬を見直す場合は、議員としての仕事量や再就職の容易さ等々、総合的に判断しないといけないので、簡単には答えを出せそうにないです。

報酬高騰の原因になるので、決定には恣意性を入れない方がいいのではないでしょうか。議員の事情などは特に考慮する必要はなく、国民所得の平均値にするとか、その2/3にするとか、あるいは中央値にするとかにした方がいいと考えます。国会議員であれば国民の……、地方議会議員であれば各々の自治体住民の……、でもいいかも知れません。例えば、報酬を国民の平均所得にすることが「少な過ぎる」とは思えないのですが。

個人的には、一律月10万円でいいかと思います。

> ただ、国政や大都市の議員の場合、実際のところは、公共事業やさまざまな許認可等の利権を握ることによるメリットの方が、報酬よりずっとおいしいのだろうと思います。/本当のところ、議員になるインセンティブは報酬よりも利権の方か主要因のような気がします。

この指摘に関しては、「ばたお的議会改革案(2)」で1つの回答をする予定ですので、そちらをご覧ください。

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プロフィール

ばたお

Author:ばたお
・1983年大阪府生まれ。大阪府河内長野市在住
・半自給農民、工場非常勤。できるだけ稼がず、できるだけ消費しません。シェアハウス運営
・土と暮らし研究会

【ツイッター】@BATAO_Hetare
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