日本土着の憲法の可能性
◆主要な新設されたこと、変更されたこと、削除されたこと(ばたおの独自基準)
≪ 天皇について ≫
・天皇は元首(第1条)
・国旗は日章旗、国歌は君が代(第3条)
・国旗・国歌の尊重義務(第3条)
・元号の規定(第4条)
≪ 軍隊について ≫
・自衛権の明記(第9条、第9条の3)
・国防軍の明記(第9条の2)
≪ 国民の自由・権利について ≫
・国民の自由・権利は、「公共の福祉」に反しない限り尊重される → 国民の自由・権利は、「公益及び公の秩序」に反しない限り尊重される(第12条、第13条、第21条、第29条)
・国民の自由・権利には、責任・義務が伴う(第12条)
・国民は「個人」として尊重される → 国民は「人」として尊重される(第13条)
・「憲法は侵すことのできない永久の権利である」(現行憲法の第97条)が削除
≪ 宗教について ≫
・「宗教団体は政治上の権力を行使してはならない」(現行憲法の第20条)が削除
・「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」については、国や地方自治体は宗教的活動をしてもよい(第20条)
≪ 家族について ≫
・家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される(第24条)
・家族は、互いに助け合わなければならない(第24条)
≪ 緊急事態について ≫
・緊急事態宣言(第98条、第99条)
≪ 憲法尊重義務について ≫
・「天皇の憲法尊重義務」(現行憲法の第99条)が削除
・国会議員・国務大臣・裁判官その他の公務員の憲法尊重義務が、憲法を擁護する義務に(第102条)
・国民の憲法尊重義務(第102条)
●「公益及び公の秩序」
注目すべき点の1つは、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変更されているところだ。ただ単に「語句が替わっただけ」という気もしないではないが、これは明治憲法下における「法律の留保」(人権は無制限に保障されるのではなく、法律が認める範囲内において保障されるに過ぎないということ)を想起させることもまた事実である。
「公共の福祉」とは、(定説である一元的内在制約説に従えば)「人権相互の矛盾・衝突を調整するために認められる衡平の原理」のことである。つまり、私たち一人ひとりの人権は保障されている以上、どこかで誰かの人権と矛盾・衝突する場面が発生してしまう。その際は仕方がないので、いい感じに人権相互を調整しましょう、ということだ。
ところが、これが「公益及び公の秩序」となると話が変わってくる可能性がある。その理由は、「公共の福祉」が言わば「国民と国民の関係」の問題についての言及だとすれば、「公益及び公の秩序」は「国家と国民の関係」の問題ということになるからだ。つまり、身も蓋もなく言えば、「公益及び公の秩序」とは「国家≒政権政党の設定した利益や秩序」を意味しており、その帰結として「国家≒政権政党に逆らう者や都合の悪い者の権利は制限されても合憲である」ということにもなりかねないのである。
他には、「国民の憲法尊重義務」や「権利に義務が伴う」といった規定も、よく意味が分からない。なぜなら、憲法とは国民の権利を保障し、法律はこれを守れよ、という性質のモノであるはずだからだ。
●日本土着の憲法の可能性
しかしながら、よく考えてみると、現行の日本国憲法は市民革命を経て獲得したモノではなく、敗戦時にGHQから押し付けられた「即席日本語訳のなんちゃって憲法」である。加えて、そもそも人権思想なるモノは、「近代」的な価値観の産物に過ぎない。言わずもがな「近代」とは、ヨーロッパ、キリスト教、白人、男性といったニュアンスが強く、私たち日本人に馴染まなくても何ら不思議ではないように思う。
他者から押し付けられた憲法ではなく、日本人自らが自主的に憲法を制定する、といった発想は間違ってはいないだろう。従って、もしかすると私たちは、自民党の唱える「トンデモ憲法」から始めるべきなのかも知れない。そして、概念の輸入はもういいので、日本人の持つ土着の倫理や道徳、慣習に基づいて憲法を再定義する。そうした血を流す過程を経て、より良い憲法を獲得するのもアリということだろうか。




























